“The Big Switch(『クラウド化する世界』)”の著者であるNicholas Carrによるエッセイ。自らの体験をフックにしながら、Internetによるテレビの変質について思考を巡らす。
The Price of Free
【New York Times: November 15, 2009】
彼の言う自らの体験というのはこういうこと:
何とはなしに惹かれて買ってしまったBlu Ray PlayerにWeb-enable機能がついていて、結局、Blu Rayよりも、Internetからビデオを視聴する機会が増えてしまった。Carrは、もともとNetFlixに入っていたので、それらをダウンロードしてみれば、月額使用料の11ドル以上は費用はかからない。だから、ケーブルでペイパービューで映画を見ることはなくなった。挙げ句の果てには、ケーブルの映画チャンネルも辞めてしまった。
要するに、件のBlu Ray Playerのために、ケーブルはバイパスされることになってしまったわけだ。ブロードバンドを経由したビデオ視聴が容易になることで、ケーブルテレビの視聴もDVD/Blu Rayの視聴も減ってしまった。
Carrは、こうした視聴態度の変化はひとり彼自身に限ったことではなく、他の人びと≒ケーブル契約者も大なり小なり似たような経験をしているだろう、と想像するに及び、とうとうテレビ/ビデオの世界にも、インターネット/ブロードバンドによる構造変化が訪れてしまっていることを実感した。
エッセイでは、途中、こうした彼の経験と並行して、ケーブル最大手のComcastの最近の動きについて触れている。Comcastが提供するインターネット上でBitTorrentのファイル転送速度を遅くしてnet neutralityの原則に反して、FCCや各種団体から非難されていることや、NBCUを買収しようとしていることが紹介されている。
ただ、Carrとしては、最終的にインターネットによってケーブルがバイパスされることはおそらく避けられないことだろうが、しかし、それは、映像作品を製作している側にお金が回らなくなり、結果的に番組のクオリティが下がってしまうだろうことを懸念して、筆を置いている。
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この最後のくだりは、少しばかり、結論にジャンプしすぎているようには見えるのだが、一つの典型的な議論であることは間違いない。
典型的というのは、東海岸的な、産業人の議論として、という意味。
Carrには、基本的に、東海岸的な、産業主義的な保守派の要素がある。
それは、彼の著作の論調を振り返ればよくわかる。
IT投資に踊らされてはいけない、というのが第一作。
(“Does IT matter?” 『ITにお金を使うのはやめなさい』)
Web 2.0的な、オープン化の流れを、新たなutilitiesとして捉えている第二作。
(“The Big Switch” 『クラウド化する世界』)
いずれも、産業主義的な色彩が強い。
Carrは、素朴な観察に基づく、経験主義的な議論をフックにして、これに主に歴史的な推移という事実と若干の最近のデータという事実を組みあわせて、現実的な議論を構築する。
Harvard Business Reviewのeditorをした経験がこのような立論を好むようにさせたのかもしれない。彼の議論は、最低限、一国の産業の全体像という「世界」を考えて、その中で、どう経済的に帳尻が合うのか、を考える。そういう意味では、日本の経済官僚の発想に近い。
東海岸を中心としたestablishmentをイメージしているので、西海岸、とりわけSilicon Valleyの企業・経営者のような、アタッカーのポジションをとらない。
アタッカーは、とにかく現状を破壊する。それも、新たな知恵=技術革新によって、世代交代の新陳代謝を加速させるようなアタックの仕方をする。
それに対して、東海岸の企業は、事業改革といっても、かつて一度成功を納めた事業からの転身を、漸進的に進めなければならない場合が多い。
自らの巨大さのために、変革の反動が自らに大きく降りかかってくる。そのことを危惧しがち。その分、行動が本質的に保守的になる。
裏返すと、自分たちで自分たちが所属する産業の隅から隅まで管理し尽くすことが可能だという自負と自信がある。
典型は、HarvardよりもMITやCarnegie Melonあたりで見られるのだが、産業全体を一つの事業のように捉え、その中でバリューチェーンの割り振りを考える。そして、どこを調整すればいいか、トップダウンで計画しようとする。リーディングカンパニーとしての規模が大きい場合、彼らは、自身の計画が産業全体の変革につながるものとして捉えている。
繰り返しになるが、これは、西海岸のアタッカーたちとは態度が異なる。アタッカーは、東海岸の巨大企業に挑戦すればいい。一方、東海岸の企業は、自らに向かって、シャドーボクシングをするのに近い。
上のエッセイの結論も、誰かが番組や映画に金を払うようにしないと、今現在享受しているクオリティは近い将来確保できなくなる、というように、社会経済が連関していることを指摘している。
そこにあるのは、「世界は静的に閉じている」というイメージだ。
これが西海岸ならば、確かに大変なことにはなるかもしれないが、しかし、現実の世界には破滅など簡単には訪れず、何とかなるものだ、と考える。だから、インターネットが既存のコンテントをフリーライドしている、といっても、今度はその枠組みの中でしぶとくサバイヴして新たなコンテントの制作スキームを考案する輩が現れるに違いない、と楽観的に考える。
ここにあるのは、「世界は動的に動き続けている」というイメージ。
どちらの態度が心地よいかは文字どおりその人次第。
Carrの議論、東海岸の議論は、ロジックが明確で、産業全体を俯瞰するので、何かを学ぶときにはとても役立つ。全体をつかみきった感じがするからだ。
その一方で、西海岸の議論は、もう少し感覚的で直感的。成功の秘訣がいくつか提案されるものの、それは、提唱者の経験や熱意と一体化した、その意味では個別的なもの。だから、触れると元気になるが、しかし、全体像は必ずしもつかめた気がしない。
計画を作る段階では、東海岸的なマインドセットが役立つが、実際に計画を実行に移す段階では、西海岸的なナレッジセットが役に立つ。
いってみれば、Carrの対極に、IDEOがあるイメージだ。
Carrの議論は、こうした複眼で見ておく方がいいように感じる。