「神の目」を断念し「ヒトの認知限界」に準じたnews aggregatorを目指す、Slateの試み

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August 27, 2009 00:03 jst
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junichi ikeda

ブログやSNSの登場の後、news aggregatorが雨後の筍のように乱立し、その中からHuffington PostやReal Clear Politics、Newserというサイトがプレゼンスを得るに至っている。こうしたサイトは、テクニカルにはmash-upも利用しながらサイトを構成していくので、もはや単なるaggregation(集約)を超えて、synthesis(統合)といっていいくらい。

しかし、こうしたnews aggregatorの興隆の結果、インターネットの利用者は単に他者の書いたものを要約するか、要素分解した後再度パッケージするか、そうしたことに勤しんでいるように見えて、誰もオリジナルの書き物を書かなくなったように見える。ほとんどの人が、ただブックマークをし、その数を競い、ただ適当なコメントをつけることに終始している。

このような状況に対して、news aggregatorの先駆けであるという自負を持つ、ウェブ専業の、オンラインマガジンであるSlateが、dailyのaggregationページである“Today’s paper”の編集方針を変え、新たに“the Slatest”というページを作るに至った。

次は、その編集方針の転換について、編集者自らが記したもの。

Introducing "The Slatest," a Better News Aggregator
【Slate: August 24, 2009】

あるサイトのあるページの単なる編集方針の変更宣言に過ぎないため、思い切りミクロな出来事ではあるのだが、しかし、この編集方針の転換は、インターネットの黎明期から専業のオンラインマガジンを立ち上げ今日に至る先駆者から見た、オンラインジャーナリズムの変遷に関する分析を踏まえたものになっている。この10数年のオンラインジャーナリズムの変化への対応となっている。

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面白いのは、Slateが最初に、aggregationサービスとして、主要新聞記事の集約とコメンタリーをつける“Today’s paper”を開始したときの考え方。

開始当初の1996年には、まだaggregationという言葉はなかったので、Slateの編集スタッフは、これを“meta-news”と読んでいた。言葉が示すとおり、各紙のニュースに対して、一段メタな立場に立ち、それぞれの記事に対して等距離にコメントするものだった。

当時は、まだ新聞社のサイトもなかったので、新聞の分析は、ファックスで紙面を受け取り、それらを論評していた。だから、オンラインマガジンである利点は、分析した結果を、即座に、オンラインパブリッシング(オンラインで公開)できることだった。それでも、十分新しいサービスだった。

加えて、そうして複数の新聞記事を横並びで見ることにより、一種の「言説分析」のようなことを行うことを目指していた。つまり、複数の記事を眺めることで、それらの記事の背後にある、書き手の無意識、あるいは、そうした記事を求める読み手の無意識を感得し、一種の“Zeitgeist(時代精神)”をあぶり出すことができると考えていた。

つまり、Slateの編集者は、複数の新聞に対して「神の目線」から論評を加え、そうした「神の目線」によってメディアに込められた“Zeitgeist(時代精神)”すら見いだすことができると信じていたわけだ。

そうした姿勢で96年以来、Slateは“Today’s paper”を続けてきた。

しかし、インターネットを取り巻く環境の変化は、こうしたaggregationの持つ意味を大きく変えてしまった。冒頭に書いたとおり、ブログの登場によって、任意の人がニュースストリームに参加することができるようになったし、トラックバックやブックマークのように、相互にリンクを張り巡らすことが容易になった結果、情報への接触の仕方が文字通り桁違いに複層化してしまったからだ。

こうしたインターネットの利用環境の変質がAggregationに与えた変化は、大きく二つある。

一つは、とにかくニュースサイクルが加速していること。
もう一つは、aggregationの対象が、新聞だけでなく、ブログやビデオ(素材としてのニュース映像を含む)のように、拡大していること。

その結果、Slateは、“Today’s paper”の創設時に想定していた目的を果たすことがほとんど不可能になっていると分析した。今のままでは、メディアの時代精神などくみ取るのは全く無理だという判断をした。

だから、Slateは「神の目」をもつという野望を放棄した。
というか、断念した。

インターネットの中のニュースの世界は、あまりにも流れが速く、あまりにも量が多い。

手に負えないくらいの量のデータ(情報、意見、その他)がウェブ上に間断なくアップされて、あたかも、巨大な波のような存在になり、その動きの一部始終を切り取ることなど全く不可能になってしまった。

そして、附帯的に理解してしまったのは、そもそも、新聞やテレビなどのニュースによって、自分たちが住む世界の全体像を把握する、ということ事態が、巨大な虚構であることがわかってしまった。全体を見渡せるというのは、理屈の上では可能だ。しかし、現実的に不可能だ(多分、情報科学の言葉で言えば、計算量的に不可能、ということ)。その意味で、イマジナリーなものでしかない。

あるのは、ただ巨大なデータのうねりだけ。

ニュースサイクルの加速も、ニュースソースの拡大も、いずれも、「ヒトの認知限界」を超えてしまった。

だから、当初あった「全てを見渡せる」という自負、その上で「時代精神をあぶり出せる」という自負は粉微塵になってしまった。「神の目」などおこがましいにもほどがある。

代わって、Slateが採ったのは、極めて「人間的」な対応だ。

この巨大なデータのうねりに対する、彼らなりの「観察方法・手順」を明示することで、常にsecond bestの情報提供を心がけること。ヒトが扱える範囲を限定し、その中で作業を行うわけだ。

つまり、自分たちが「認知可能な」観察のための「枠組み」を提示し、その範囲で観察を行い、コメントをする。荒野を更地にし、ローラーをかけて平坦にし、その上で利用範囲を限っていく。そうすることで、初めて人間は、自然の土地を扱うことができる。

それと同じことをインターネットの中の広大なニュースの世界、巨大なニュースストリームに当てはめることで、自分たちの責任の範囲で、暫定解でしかないと常に意識しながら、ニュースのまとめを提示していく。

具体的には、24/7で、24時間365日、間断なく流れていく情報の波にそのまま乗ろうとしても跳ね返されるのが関の山なので、Slateとしては、アンカリングするタイミングを一日三回にしたこと。

(なお、ここで、情報の波に間断なく乗り続ける方を採ったのは、前に紹介したPolitico。そして、間断なく乗り続けるために、Politicoは、ワシントン政治のインサイダーたちに特化したメディア=媒介物となることを選択している。いわば自身がニュースの一次発信源となることを選択したわけだ)。

また、一回のクリッピングで取り上げるのはSlate Dozenとあるように12本のニュース。
ソースは、新聞サイトの記事、ブログのエントリー、雑誌記事など。

だが、なぜ12かというと、おそらくは、Dozenという言葉があったから、という以上の理由はないと思う。「切りがいいから」という理由だけ(日本人ならベスト10とするのに近い)。

大事なのは、理由はどうあれ、絞り込む数を明示することで、そこからこぼれているもの(記事、情報など)の存在を忘れない、ということ(この時点で、全体像の把握は断念されている)。

一日三回というサイクルも、dailyではもはや意味がないからだが、だからといって、延々と続く情報の流れに与するわけにも行かないから。

そして、ひとたび、三回と定めたら、むしろ、その一日三回、というサイクルが最も「もっともらしく」見える理屈の下で、それぞれの重点を絞り込んでいく。そうやって、むしろ、人為的に「サイクル」をつくりだすわけだ。

具体的に三回とはこういうこと。

Phase 1: Launch
一般的にいって、新聞は「夜作られる」。
朝刊の構成は、
・前日の出来事のまとめ
・独自の調査報道のリリース
・時代精神を象徴するような出来事の紹介
・Op-Ed
から構成される。

Slate Dozenもこれに倣い、まずは、朝版を出す。

Phase2: 応答
ひとたび、新聞朝刊や朝のテレビニュース、オンラインニュースがポストされると、それらに対して、取材力はないが分析力はあるウェブメディアが応答してくる(この時差については、このエントリーも参照)。
こうしたウェブの数多の応答を絞り込むのが、Slateの午前中の仕事になる。

Phase3: buildup
朝版への応答からなる昼版の様子を見ながらも、
その日の日中の出来事の取り上げ、
前日までの出来事との接続、解釈を行い、
突発的事件があればそれを組み込む。
そうやって、夕版をつくる。
Opinion makersとして、こうした動きが、夜のテレビ(ケーブル)ニュースでどう取り上げられ、明朝の新聞の取り上げられ方を予測する。その予測をフィードバックして、今の出来事や情報の真贋や意図を分析する。


このような感じで、際限なく拡がってしまったインターネット上のニュースの世界を、区画してヒトが理解できるものにし、そうして常に暫定的な近似解としての「サマリー的コメンタリー」を作っていく。

もちろん、こうした当初の思惑や意図の部分と、実際に提供されるサービスの現実の間には、しばらくの間は、乖離が生じるのが普通(いわゆる「理想と現実」というやつ)。正直言って、実際のページはまだそれほど凄いものには見えない。

だから、ここで大事なのは、Slateが現在のインターネット上のニュースの世界をどう捉えているか、そして、どう対応しようとしたか、というところに尽きる。そして、この分析は、インターネットの黎明期からオンライン専業のニュースサイトとして今まで続いてきたからこそできるものだ。そういう意味で、アメリカのオンラインニュースの世界が今後どうなっていくか、と考える際のよい参考になる動きと思う。