『もののけ姫』とアメリカの地球環境コミュニケーション

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June 24, 2009 07:46 jst
author
junichi ikeda

NYTのトップページでたまたま見かけた、“Princess Mononoke(もののけ姫)”の紹介。

なぜ、今?という疑問とともにクリックした。

Critics' Picks: 'Princess Mononoke'
【New York Times: June 22, 2009】

内容は3分ほどのビデオコメンタリー。2009年の今、これがピックアップされたのは、『もののけ姫』が、Global Warmingへの対処にのりだしたアメリカ人にとっても、「自然との共生」とは何かを理解するのに適した、「複雑さ(complexity)」と「陰影(nuances)」をともなった作品だから、ということだ。

コメンタリーでは、日本のアニメーションはアメリカのそれとは違って必ずしも子供向けという位置づけではない、フルアニメーションだが背景はモネやターナーのような描写で景観としてすばらしい、などと一般的な紹介をした後に、『もののけ姫』の物語に触れている。

物語の中核には戦争があるが、それは善悪二元論には還元されない。作中登場する一般市民は、勤勉で一定の節度を持っているが、同時に、欲深で近視眼的。「森」は美しいが、同時に、怪物的でもある。そして、物語の終末は、敵対した者同士のどちらかの単純な勝利では終わらない。

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オバマ政権になって、Global Warmingへの対処方法においては、急速に国際協調路線に転換しているアメリカだが、とはいえ、それはデモクラットの優位がさしあたって確立されたからこそ起こっていること。アメリカの場合、政策的な決定の「揺り戻し」は日常茶飯事なので、GOPが次の選挙で勝ったら、また振り出しに戻る可能性は高い。たとえば、中西部の石炭産出州からの反対は根強い(アメリカの火力発電は石炭が主要な資源)。

だから、単なる国際協調という、他国もやるのだから外交バランス上やる、という受動的な理由だけでは、Global Warmingへの対処がアメリカの中で継続されるかどうかはわからない。もっと、一人一人の理解による、内発的な動機付けが必要だ、という判断がデモクラット側には働くはず。

アメリカのエコに関する言説は結構複雑。ゴアによる地球環境の警告は、本人が著者(“The Assault on Reason”)で「恐怖の政治学」はよろしくないと言っているにもかかわらず、かなり「恐怖」や「不安」を喚起することで行動を起こそうとしているし、それに対して、たとえば、マイケル・クライトンの“State of Fear”は、環境テロ的な行動にかなり直裁的に疑問を呈している。なんにせよ、アメリカの政治文化としての党派性に大なり小なり依拠した表現になっているし、受け止める側もそういう受け止め方をしてしまいがち。

そういう文脈の中では、『もののけ姫』は10年前に制作されたという事実も含めて、党派性のノイズに囚われずに、事の本質に迫れるものとして、今更ながら紹介されたのかもしれない。

それから、こんなことは全くコメンタリーでは触れられていないが(だから、私の憶測だけど)、「森」と対峙する文脈が、たとえば、欧州の環境運動がドイツを中心にした「森」(と「川」)の保護から始まったこととも通底するのかもしれない。あるいは、洋の東西を問わず、「森」は異界への入口、人の住む世界と異界との境界、という象徴的意味に惹かれているのかもしれない。

実際、そういう自然との対峙における「複雑さ(complexity)」と「陰影(nuances)」をもった大衆映画が、アメリカの中では見つけにくい。たとえば、『エリン・ブロコビッチ』(ジュリア・ロバーツ主演)のように、法廷で環境基準遵守に関する企業の不正を暴き、その勝利によって溜飲を下げる、そんな方向で物語的には収束しがち。

裏返すと、『もののけ姫』のような作風は、アメリカの映像作品としては制作にあぐねるものかもしれない。その点で、有意味だと。

(もっとも、NYTはデモクラット寄りだから、その分も加味して受けとめないといけないかもしれないけれど)。