週末に遅ればせながらようやく『1Q84』を読了。
で、村上春樹つながり、というわけではないのだけど、サリンジャーについて。
いうまでもなく、今の日本でサリンジャーといえば、村上春樹(と柴田元幸)。
そういえば、柴田訳の『ナイン・ストーリーズ』も単行本化されましたね。
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サリンジャーが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の続編と思しき小説の、アメリカにおける出版を指し止める裁判をNYで起こし、さしあたって、裁判所判事も10日間の出版延期を命じた、というもの(だから、近々、正式な判決も下る予定)。
Holden Caulfield Hangs on to His Youth
【New York Times: June 17, 2009】
Holden Caulfield, a Ripe 76, Heads to Court Again
【New York Times: June 16, 2009】
サリンジャーが訴えたのは次の作品。
作品名: “60 Years Later: Coming Through the Rye” (以下“60 Years Later”)
作者名: John David "J. D." California
ちなみにサリンジャーの方は:
作品名: “The Catcher In the Rye” (以下“The Catcher”)
作者名: Jerome David "J. D." Salinger
見た目であからさまにサリンジャーの作品名および作者名をネタにしている。
JD Californiaを名乗る人物は、スェーデン人のFrederik Coltingという人で、もともとスェーデンのジョーク本出版社のNicotextの経営者。で、“60 Years Later”の出版のために、イギリスにWind-Up Bird Publishing(「ねじまき鳥」出版?)という会社まで設立している。(しかし、なぜ、「ねじまき鳥」。なぜ、ここにも村上春樹・・・)。
いやはや、どこまでがマジで、どこからがネタなのか。徹底的にパロってるわけで。
(とすると、John Davidの部分は、ロックフェラー家の元祖であるJohn Davison Rockefellerももじっていたりするのだろうか)。
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ただ、ここまであからさまに、というか、力づくでパロディやってます!、という姿勢があると、むしろ、裁判の行方はわからなくなってくる。
なぜなら、“parody”はfair useの主要な鉱脈だから。
単なる揶揄や引用ではなく、徹底的にある作品を叩いた果てには、オリジナルの作品が到達できなかったところまで行ってしまうから。
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裁判の争点としては、まず、
●ある作品中のcharacterはcopyright lawの保護範囲かどうか
“The Catcher”の主人公である、永遠の反抗児Holden Caulfieldは、“60 Years Later”の中では、Mr. Cと言及されるだけだということ。ただし、作中で、Mr. Salingerなる人物が登場するということだから、Holden君との関係づけは明らかに想定されている、ということ。図像によって視覚的に特徴が明確なキャラクターに比べて、テキストベースの文学作品の登場人物の場合はコピーライトの判断は難しくなるようだが、しかし、Holden君はキャラが立っているので(つまり、十分そのキャラクター造形が文章表現によってなされているので)、copyrightableになる模様。
とすると、次に重要なのは:
●新しい作品が原著作者の承諾を必要としないfair useの範疇に入るかどうか。つまり、“60 Years Later”が原作品である“The Catcher”の“parody(パロディ)”になるのかどうか。
この“parody”という概念は、アメリカのcopyright lawの運用上は、かなり厳格に定義されている。先に言っておくと、“parody”と認定されるなら、それは、“freedom of speech”の観点からfair useとなり、オリジナル作者の承諾とは関係なく、出版が認められることになる。
ここで日本語の「表現の自由」でいう“expression”ではなく「“speech”の自由」といっているのは、(政治的)プロテストのために広く訴えること一般のことが“speech”だから。つまり、“freedom of speech”というのは、そういうプロテストの行為としての広義のスピーチがその行為だけからは妨げられない(もっといえば公権力によって阻止されない)自由のことをさす。
そして、そのプロテストのための典型的な表現様式が“parody”になる。単なるだじゃれやもじりを通じた、表面的な中傷に当たる行為は、copyright law では“satire”とされ、fair useの範疇には入らない。“parody”と“satire”は厳格に区別される。非常に感覚的な言い方になるが、徹底的に批判=批評しつくさないことには“parody”にはならない。中途半端なネタ扱いでは“satire”どまりなのがオチ。
(アメリカの日常生活において、パロディの典型として想起されるのは、たとえば、“Saturday Night Live”のようなテレビショーだろう。時に現職の政治家に対して厳しい風刺や批評を行うショーで、部分的には“satire”でしかない表現もあると思うが、番組全体としては“parody”として容認されている。とはいえ、同じような番組が日本にはないことを考えれば、“parody”が単なる「概念」にとどまらず、永続的で日常目にする行為になるためには、文化的土壌がかかせない、ということになる)。
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だから、件のサリンジャーの裁判では、“60 Years Later”が“parody”として認められるかどうかが、が重要な鍵を握る。
テクニカルには、というか、法手続的には、“parody”として認定されるためのtest(判定基準)があって、それは、4つの段階からなる:
(1) オリジナル作品をどれだけtransformしているか。全く同じ部分が少ない方がいい。
(2) オリジナル作品の芸術性の有無
(3) オリジナル作品からのコピー量
(4) オリジナル作品の市場への影響
といっても、この四つの判定基準は、できるだけ客観的に見えるような基準を用意しておこう、というものでしかない。実際の運用の際には、検討当初の、“parody”か否かの直感的予感の有無・程度が判定結果に影響を与えがち。法律の運用上はそれほど無理のない話だが。
つまり、手続きはある。公式はある。問題は、その手続きや公式、フォーミュラに、何を代入するか。代入する者をだれがどうやって選定するのか。
ちなみに、過去の判例で、“parody”としてfair useが認められたものは、“Gone With the Wind(『風とともに去りぬ』)”を、奴隷であった黒人視点で書き換えた “The Wind Done Gone”が有名。
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そういう意味で、アメリカの関係者の最大の関心事は、担当判事であるBatt 判事がどう判断するか、にあるし、もっといえば、Batt判事の文学的素養がどの程度か、Batt判事の文学の読解力がいかほどのものか、というところまで関心がわたっている。
“60 Years Later”を実際に読んでいないため、単に推測することしかできないが、たとえば、“60 Years Later”が、“The Catcher”という作品だけでなく、“The Catcher”とサリンジャーの関係まで描いていると伝えられているところから推測(というか憶測)すれば、サリンジャーが、もはや世界的な文化遺産、人類の文化となっている“The Catcher”について、その利用をあまりに渋っていることに対するプロテストも入っているかもしれない(たとえば、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に訳者解説を掲載できなかったことも、そうしたプロテストの対象になることなのかもしれない)。
問題は、J.D California 側が想定したプロテストの機微について、Batt判事がどう判断するか、ということになる。
上で引いた“The Wind Done Gone”については、黒人視点による書き換えが、ある意味affirmative actionの延長線上の行為として捉えられ、その社会的意義・公共的意義について理解しやすかった、いや、否定しにくかった。そんな事情も、担当判事を含めた訴訟関係者たちのあたまのなかにはあったのだと思う。
だから、“60 Years Later”について、parodyとしてどんなプロテストの意義をBatt判事が見いだすのか、そして、実際、その意義が十全に“60 Years Later”のなかで表現されていると判断されるのか。
このあたりについて、近々発表される予定の判決で、注目していきたいと思う。
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さて、以上はテクニカルなことをかなりねちっこく書いてしまったが、初見で、個人的にもっとも興味深いと思ったのは、
スェーデン人の作者がまずスェーデンで作品を書き(しかも英語で)
それがロンドン(イギリス)でまず出版され、
ついでNY(アメリカ)で出版されようとしている、というところ。
グローバル時代、というか、ウェブ時代において、いろいろと示唆が多いとことだった。
仮に上の裁判でサリンジャー側が勝ったとしても、それは、さしあたって、アメリカで“60 Years Later”が出版されない、というだけの話で、その間も、イギリスでは販売されるし、仮にそれすら出版禁止に追いやられたとしても、既に相当の出版数は市場にばらまかれているわけだから、その流通はグローバルにアンダーグランド化する可能性も出てくる。
(つまらない例で申し訳ないけれど、留学中、指定の教科書の、中国でのプリント版というのが、アメリカの教科書の3分の1ぐらいの値段で入手可能だった。それらが正規の手続きを経たものかどうかは判らなかったが。言いたいことは、アンダーグランドの流通は、世界に目を転じれば、当たり前だということ)。
それに、各国ごとに出版基準が変わるようだと、それこそ、古くは宗教改革の頃のオランダのように、出版行為に対して、Safe Havenを自認する国や地域が出てきてもおかしくないのかもしれない。
ということで、ずいぶん、余計なことも書いた気がするが、しかし、このサリンジャーの裁判の話、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の続編もどきによる作品全体を通じてのオリジナルへの批評行為については、メディアによる騒がれ方も含めて興味深いので、しばらく様子を見続けたいと思う。