WSJにPaul Starobinが寄稿している。
Divided We Stand
【Wall Street Journal: June 13, 2009】
簡単に言うと、オバマ政権によるFDRばりの連邦政府の権限拡大に対して、アメリカは自らの政治的遺伝子に従って抵抗すべきである。つまり、ジェファーソンに見られた、「自律的な地域共和国群」の集合体に戻ろう、という主張。さらに、18世紀末以来、アメリカは、政治思想と統治行為における「創造的破壊」を先導した国なのだから、「自律的な地域共和国群」の実現に向けて、自らの政体を創造的に破壊し、21世紀型の国家の有り様を実現すべきだ、という。
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アメリカは、常に国内に「分断」の可能性を抱えている。もともと東部大西洋岸にできた沿岸共和国が、北米大陸に植民地としての現地政府を持つ、イギリス、フランス、スペインから、戦争その他の方法で領土を獲得し、拡大してきた。当然、アメリカの領土となる以前に統治をしてきた国々の文化的土壌の上に、アメリカ合衆国としての文化が上書きされていったことになる。フランス領ルイジアナとして統治されたミシシッピ川沿岸はフランス文化が、カリフォルニアにはスペインとメキシコの文化が色濃く残っているし、オレゴンやワシントンは、英領カナダとの文化的連続性を維持している。
アメリカは常に潜在的な分断線を領土内に抱えている。今回のStarobinの論考では、主に「対オバマ」政権の動きとして、GOP系のテキサスや南部の動きが言及されているが、たとえば2004年のブッシュ大統領再選の直後には、伝統的なデモクラット州である、ニューイングランド、イリノイ、西部沿岸(カリフォルニア、オレゴン、ワシントン)が、分離して、カナダと新しい国を創ろう、という案ももっともらしく検討されていた。
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ただ、Starobinの記事は、こうした政治的な要素だけでなく、経済的な地域集約の実態についても考慮している点が、今日的にリアルと言えばリアル。
少し前ならサスキア・サッセン、今ならリチャード・フロリダが主張するように、経済的な協働連関からみれば、世界は国単位ではなく、経済の集中度に応じた「世界都市」や「メガ・リージョン」で見るほうが、様々な意味で実践的だ、ということになる。ここでいう「様々な意味」というのは、ビジネス上のメリットや、そうした都市や地域に包含される地方政府にとっての取るべき政策オプション、ぐらいの意味で。
Starobinが指摘するのは、たとえば、アメリカとメキシコの国境をまたぐ形で地域連携を図る、San Diego周辺の“Cali Baja”であったり、あるいは、経済的に集約された都市がそのまま国家となる“City-state(都市国家)”の先例としてのシンガポールであったりする。
Starobinからすれば、こうした時代の趨勢を踏まえた場合、カリフォルニアでさえ巨大すぎる、ということになる。だから、今のオバマ政権による、FDRばりの連邦政府の権限強化には、全く与しないようだ。アメリカ自体が、でかすぎて身動きがとれなくなった国に成り下がっていて、それではこの先いけない、というのが、Starobinの考えのようだ。
ある意味、典型的なGOP、もしくはジェファソニアン、あるいはリバタリアン的な考え方。そして、こういう「小さい方がもっといい」という考え自体の由来が、たとえば、上述の“Cali Baja”の推進人物が影響を受けた本として紹介しているように、日本語訳もあるミッチェル・ワールドロップの『複雑系』であったりするところがなんとも。「自律分散」「創発」のような考え方が愚直に実践されていることになる。
ただ、そうすると、実は、オバマのホワイトハウスが考えていることともそれほどかけ離れてはいないのではないか、とも思われるわけで。というのも、例のCass Sunsteinのいう、libertarian paternalism の考え方があるからで。
連邦議会に代表を送る単位は今も昔も「州」であって、だから、「州」がアメリカの中の複雑な利害を集約させる代表的なフラグの一つ。その一方で、実際に連邦議会の議員を動かしているのは、議会の委員会・小委員会を通じて繋がりの深い各種の「企業」「団体」。この捩れの部分に手をつけようというのがオバマのホワイトハウスの基本姿勢の一つのはず。
だから、仮にアメリカを自律的な共和国群に再整理するにしても、その分断線が州に代表される境界による、というのは数あるオプションのうちの一つに過ぎないと思う。実際、Starobinは、南部の分断線として敬虔なキリスト教徒というフラグについても、上の寄稿で触れているわけで。
さしあたっては、アメリカには分断軸がいくつもある、ということを再確認しながら、それら分断線そのものを再定義しようとする動きが同時並行で起こっていることに注目しておく、というところだろうか。