アメリカンTVのPost-Scripted Televisionへの転回

latest update
May 29, 2009 17:12 jst
author
junichi ikeda

NPRのニューストークショーでLauren Zalaznickがインタビューを受けていた。

彼女は、NBCユニバーサルグループの一つである、NBC Universal Women and Lifestyle Entertainment Networks.のPresident。ケーブルチャンネルのBravoやウェブサイトのiVillageを運営している。また、NBCユニバーサル全体で、Women@NBCUという、メディア/プラットフォーム横断的な、女性をターゲットとしたマーケティングプログラム(アメリカの場合プログラムよりは「イニシアチブ」ということが多いけど)を先導している。

彼女がBravoで行ってきたことについては、半年前の特集になるけど、次が詳しい。

The Affluencer
【New York Times Magazine: November 2, 2008】

NPRの番組中では、Zalaznickは、Bravoで成功したリアリティTVフォーマットや、そのマーケティング的応用方法についてコメントしていた。

おそらく、この時期、彼女が登場してきたのは、最近のアメリカのテレビ業界の変容を物語るのに最も適した人物の一人だからだろう。

NBC(もちろんNBCユニバーサルの基幹ビジネス)は、9月からの新シーズンのプライムタイムの番組編成で、今までは大型テレビドラマ(ERやHeroなど)が主流だったところに、月-金でJay Lenoのトークショーを当ててきた。(Jay Lenoは5月いっぱいまで、NBCの夜11時台の看板番組であるThe Tonight Showの司会を務めている。彼の後任は、Conan O’Brien。この人もとても面白い)

プライムタイムの大型ドラマは、いわばハリウッドスタジオの指定席のようなものなので、その編成が変わるというのは業界においては大事件。

このあたりの事情については、次のAtlantic Monthlyの記事がわかりやすい。

The Future Is Cheese
【The Atlantic Monthly: March 2009】

上で紹介した二つの記事やラジオ番組で語られているアメリカのテレビの状況というのはおおよそこういうこと。

●ケーブルテレビの普及による多チャンネル的状況に加えて、インターネットによる動画接触も当たり前になった今、視聴者の分散化は、もはや番組編成の上では、デフォルトの、前提条件になってしまった。

●テレビ業界も足下の広告不況のため、番組の制作、調達に、従来のような予算を充てることが難しくなった。

●特に大型ドラマのような、制作に予算も時間もかかって、番組編成上の「機動力」に欠けるものの扱いが難しくなった。

●その一方で、トークショーやリアリティショーは、制作予算も少なくて済むし、番組の内容もフレキシブルに対応できるところがあって、編成上、使い勝手がいいフォーマット。

●そうしたなかで、Bravoで、リアリティショーを中心に人気を博してきたZalaznickのような人物に業界の関心が集まるようになった。

*

Zalaznickによると、彼女がBravoで練り上げたリアリティショーの特徴は:

●フォーマット: 複数の人間による「コンテスト(競い合い)」
●内容: ハイスタイル=おしゃれな職種を舞台(ファッション、フード、デザイン、など)

Bravoは、特に「ハイスタイル」の部分で、NYやLAを舞台にすることで、同じ競い合いでも、“Survivor”や“Lost”のような過酷さをなくして、より都会的で洗練したものへと変貌させた。いわば、「都市における競い合い(時に騙し合い)」をテーマにして、ニッチだがコアなオーディエンスを得ることに成功した。

ところで、アメリカの場合、この「コンテスト・フォーマット」には、日本では見られない独特の「磁場」が発生する。競い合う面々は、当然のことながら、全て白人などということはない。出身地やエスニシティ、学歴の高低、性別、などの、基本的なデモグラフィック属性に関しては、それができるだけばらけているように見えるような、「diversity(多様性)の確保」が絶対的に重要になる。

裏返すと、個々の参加者は、本人が望もうと望まないとに関わらず、視聴者から勝手に、ある特定の「(アイデンティティ)グループ」の代表として、読み取られてしまう。そのため、リアリティショーには、大型ドラマのような「脚本」がないにもかかわらず、参加者がまず集った時点で、勝手にいくつかの「物語」が発動してしまう

たとえば、とりあえず物語中盤までは黒人やヒスパニックの参加者は消えることないだろう、とか、男女比が大幅に崩れることはないだろう、とか。あるいは、こうしたコンテント番組は、しばしば「競い合い」のルールが回ごとに変わり、時に、集団どうしで競争する状況も生まれる。その際に、誰と誰が組むか、という(つましいながらも)権謀術数を働かせる場面が生じ、ここでも、たとえば、エスニシティというデフォルトの壁が、プラスにもマイナスにも働いたりする。

いってしまえば、アメリカの「アイデンティティ・ポリティックス」という背景があればこそ、リアリティショーは、単なるコンテスト以上の、過剰な意味あいをもってしまうわけだ(もちろん、映像垂れ流し、というわけではないので、カット割やモンタージュなどの編集による強調も重要な要素になるのだが)。アメリカでは、プロスポーツのタイトルで“World Series”と呼ばれることがしばしばあるが、上のリアリティショーのフォーマットも、小さいながらもそうした“World”の要素を持っていることになる。

だから、このリアリティショーのフォーマットは、一面で、ここ20年間ほど続いた「競争をよしとする保守的傾向」にも適合したフォーマットだったといえる。おしなべて作家といわれる人たちはリベラルの傾向があるわけだが、たとえば、エスニシティの異なる人々同士の(時に見苦しいまでの)競い合いを、一人の脚本家が書き上げるのは、実際問題、精神的にそうとう苦しい作業になる(アメリカでは肯定であれ否定であれ、とにかく声を上げるのがデフォルトだから)。だから、競い合いそのものを描こうと思うなら、それが「過程を経た結果」であることが必要で、かつ、そのプロセスをきちんと見せなければいけなくなる。この点で、脚本として作られたドラマ=scripted dramaでは上手く表現できなかったことだろう。

*

NBCの新シーズンの編成の変化に見られるようなリアリティショーの浮上は、並行して起こっている大型ドラマの後退も後押ししている。

従来からある大型ドラマの後退の背景には

●Scripted dramaが難しくなっていることと、
●Serialized dramaが難しくなっていること

の二つの影響があるといわれる。このうち、前者については上で述べたとおり。
後者のSerialized dramaが難しくなっているというのは、インターネットによって、あるドラマが放映された後、ファンダム同志で夥しい情報/意見交換がされるようになってきて、そうしたファンダムの「熱」をずっと保温し続けるには、一週間一回の放送で半年間でシリーズとしての物語があらかた集結、しかし、一部は来シーズンに持ち越す、というのが、あまりに悠長なものになってしまってきたこともある。

そうすると、ちょうど、アメリカの小説で純然たる長編ものよりも連作短編ものが増えてきていると言われるのと同じように、長期にシリーズ化するのではなく、あっても短期シリーズでむしろスピンオフを増やしていくという方向に向かうことになるのかもしれない。あるいはもっと直接的に、シットコム(簡単なセットで家族や友人を中心にしたドタバタ喜劇)のように、各エピソードを時系列で見る必要のないフォーマット(要はサザエさんフォーマット)が見直されるのかもしれない。

ちなみに、アメリカでテレビの長期シリーズが好まれた背景には、番組のシンジケーション市場(独立系のテレビ局やケーブルチャンネルでの再放送向け販売)での売買が、100エピソード単位であったためだし、90年代以降、ER型の映画なみのハイクオリティのドラマシリーズが制作されたのはDVD-Boxという副収入を見込むことができたから。

つまり、テレビドラマの形式は、その販売方法、視聴方法、という「形式」に大きく依存して開発されてきたといえる。

そうすると、次なる問いは、では、どうやら地上波ネットワークでの露出機会を少しずつ失いそうなscripted dramaは一体これから先どこで視聴できるのか、ということであり、あるいは、Huluのようなディストリビューション・チャネルが常態化したとき、ドラマはどういう形式になっているのか(あるいは、そもそもドラマ的なものは生存し続けるのかどうか)、ということが気になってくる。

後の時代から見たら、2009年は、アメリカの映像文化、動画文化、テレビ文化、の曲がり角になった年と位置づけられるのかもしれない。