アメリカでは産業政策は敬遠される?

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May 21, 2009 11:33 jst
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junichi ikeda

アメリカで、環境への影響を配慮した自動車製造に向けた全米統一基準がようやく発表された。

As Political Winds Shift, Detroit Charts New Course
【New York Times: May 19, 2009】

この基準は、関係する様々な立場の人々、すなわち、ホワイトハウス、自動車業界(経営サイド+労組)、関係省庁(運輸、環境関連)、基準導入による影響の大きい州のガバナー(カリフォルニア、ミシガン、マサチューセッツ)、らの合意の下で採択された(そのため、報道する立場によっては「合意」ではなく「妥協」と呼ぶ人たちもいる)。

これは、日本人の感覚だと、「あ、統一基準ができたんだ、じゃ、それにしたがってけいかくすればいいわけだ」ぐらいの感じで受け止めると思うのだが、アメリカの報道のニュアンスでは「やっと合意に取り付けた」という達成感のある、「やった!感」のある感じ。特に、今回の基準の実質的なひな形を提供したカリフォルニア州の関係者――連邦議会上院・下院議員、州知事(ガバナー)、環境系のadvocacy groups――では、こういう感じが強い。

カリフォルニア、とりわけ南カリフォルニア、ロサンゼルスは、自動車が生まれた後に都市としての成長が始まり、それまでの都市計画の概念とは異なる、モータリゼーションを前提にして大都市圏へと変貌していった。その分、20世紀の大都市が抱える問題についても先行的に経験し、なかでも、大気汚染については、早い段階で問題視されてきた。そのため、全米でも早い段階から環境問題に関心を示し、実際に取り組んできた州の一つ。

今回は、そのカリフォルニア州が、自動車業界の本拠地である、ミシガン州、デトロイト、に対して、連邦政治の過程で勝利を収めたことになる。

このように、アメリカの場合、「全米」の前哨戦としてほぼ必ず「州」の中での合意形成があり、その力をもって全米共通のルールを作ろうとする動きがしばしば見られる。連邦議会が基本的に州を単位とした選出制度に則っているのだから、当たり前といえば当たり前だが、「州対州」が一つの基準。

(州から全米へ、という動きで最近顕著なのが、たとえば、gay marriage(同姓どうしの婚姻)の合法化の動き。ニューイングランドの諸州やアイオワなどの州で合法化の動きを進め、その力で他州での働きかけ、連邦への働きかけを行っている。)

ちょうど日本の高校野球よろしく、州による予選があって、しかる後に全米での本選がある、という感じにとらえると、上の記事で伝えられる、カリフォルニアの高揚感(と自動車業界の妥協)の感覚がつかめると思う。

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今回の合意形成に当たっては、自動車ビッグ3のうちの二社、GMとクライスラーが連邦政府の支援を受けていることが当然、影響を与えている。

ただ、ここでアメリカの場合、面白いのは、こうした「全米統一」の動きが、連邦政府主導でなされることに対して、一定の「忌避感」を表明する動きがあるところ。

In U.S., Steps Toward Industrial Policy in Autos
【New York Times: May 19, 2009】

つまり、「産業政策」はよろしくない、ということ。

記事中の定義にしたがえば、ここでいう産業政策とは「特定の産業にむけた連邦政府があつらえた(tailored)政治プログラムで、金融政策や税制と違って、その政策の効果が経済全体に行き渡るとは思われないもの」。

今回の自動車規制は、環境問題への効果があるから、それは結果的に「全米に反映するのではないか」と思って記事の表現をよく見たら、今回の規制は「環境政策であり産業政策である」とあった。だから、今回の規制の中で「産業政策」に相当するところは、自動車業界の研究開発の方向性を定めてしまったところを限定的に指すのだろう。

記事にもあるとおり、アメリカでいうindustrial policyは、主に80年代の日本の経済進出に対して、その日本の躍進ぶりが、日本政府の主導、なかでも通産省(現経産省)の政策によって誘導されていたからだ、とうい分析に依っている。これはアメリカの政治経済学者、特にデモクラット系の新自由主義的な経済学者(レスター・サローや、記事中でも引用されているロバート・ライシュなど)を中心に提唱されていたもので、この80年代のこの分析は、後日、90年代に入って、クリントン政権でいくつか実現に移された(クリントン=ゴアの「情報スーパーハイウェイ」もその流れ)。

(なお、日本の成功が政府主導の「産業政策」によっていたとする議論に対しては当然反論もあって、たとえば、三輪芳明東大教授のグループが行っていたと思う)。

アメリカで、一部とはいえ、industrial policyが敬遠されるのは、それが市場メカニズムを損なうという意識があるから。その弊害は、政府が将来を見通すことに失敗したときに軌道修正ができない、政府官僚と特定業界関係者の癒着が生じる、などが弊害として記事中でも挙げられている。

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今回の全米統一基準は、オバマ政権からすれば、景気低迷の「止血」を優先し将来に向けたアジェンダは手つかずにいるとされた「最初の100日間」の評価に対して、環境・エネルギーの側面から応えたものと位置づけられる。

上の「産業政策」批判も、これがもし一般的には保守系と目されるWSJあたりに掲載されていたら「反対のための反対」と受け止めることもできたのだが、記事自体がリベラル筆頭のNYTに掲載されていたのは、ある種の自己反省的な視点の表明にも見えて興味深いと思う。