先週、15シーズン(≒15年間)続いた、NBCのテレビドラマシリーズである“ER”が最終回を迎えた。今ではスーダン救済を訴えるハリウッド・セレブ・アクティビストでもあるジョージ・クルーニーが、小児科医のダグ・ロス先生役で登場し、初めて全米で知名度を得たシリーズ。また、昨年亡くなったマイケル・クライトンが“Jurassic Park”の勢いで、テレビシリーズの原作に乗り出したことも当時話題になっていたい(もともとクライトンはメディカル・スクールで学んでいて“ER”の原作、というか原案となった作品も、彼のレジデント(研修医)の経験から書かれたものだった)。
(私も初期の数シリーズは興味深く見ていたのだが、この手のシリーズものの常として、第5シリーズあたりからどうしてもある種のマンネリ化が始まり、俳優・女優が随時入れ替わっていくことになる。個人的には、やはり初期キャストの要であるグリーン先生が亡くなったあたりで一回引いてしまった。アメリカ留学中も新シリーズが放送されていたわけだけど、キャストが全く変わっていて、結局、ケーブルの方でやっている昔のシリーズの方を折に触れ見ていたように思う。)
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ERの場合、15年続いたということもさることながら、いわゆる“Quality TV” という、90年代初頭の感覚ではテレビ放送されないような「クオリティ」のテレビシリーズの先駆けであったため、その終了が、映像文化的に一時代の終了を象徴している、とするような批評がアメリカでは出てきているようだ。
たとえば、TIMEのこの記事あたり。
Here's to the Death of Broadcast
【TIME: Thursday, Mar. 26, 2009】
“Quality TV”でいう「クオリティ」というのは、シナリオ的にも映像製作的にも手の込んだ、つまりは制作費も十分かかった、というぐらいの意味。つまり、「従来のテレビドラマ」以上「映画」未満、ぐらいの位置づけのテレビシリーズと捉えておけばいい。
90年代初頭というのは、映像作品の消費形態として、ケーブルやビデオレンタルが一定の普及を見た頃で、端的にいってハリウッドの収入の要であった映画の収入形態が大きく変わり始めた頃で、いわば劣勢に立たされ始めた三大テレビネットワークと、新たな収入機会・表現機会を目指すハリウッドのプロデューサーとの間でうまく思惑が一致した感じで浮上してきた「新たなジャンル」だったといえる。(実際、このあたりから、テレビと映画の製作関係者の垣根が少しずつ取り払われていったという)。
90年代のアメリカの景気の良さによるテレビ業界の収益性の良さ(90年代の三大ネットワークは視聴率は下落基調にあったにもかかわらず、収益は伸びていた)や、直後に起こるDVDによる「映像ソフト」の「セル」市場の普及、もあって、Quality TVのような大作ドラマシリーズは、ジャンルとして定着して、たとえば“West Wing”のような、それまではタブー視されていた政治ドラマまで登場するに到った。
ただ、こうして大作主義のQuality TVが成功している間にも、ケーブルによる多チャンネルが都市部では本当に当たり前のものになり、さらに、インターネットやDVRの普及によって、「視聴分散(fragmentation)」が常態化する。それは、制作者、消費者の双方に影響を与えずにはいられない。
一方で、三大ネットワークほど制作費に資金を回せないケーブルでは、“Lost”のような、Reality TVを生み出すことになる。これはその後、“Apprentice”や“American Idol”のような視聴者参加型のオーディションゲーム型のショーという方向や、シナリオにおける“Based on the TRUE STORY”という社会派・リアリズム派志向に分岐していく。
テレビドラマにおけるアカデミー賞にあたる「エミー賞」の受賞作も、たとえばHBOの“The Sopranos”が受賞するように、新作ドラマのお披露目の場として、ケーブルの面積が徐々に拡がっていく。そして、とうとう、FxというFox系のドラマチャンネルで最初に放映された、“Damages”のようなシリーズが、エミーにもエントリーされていく。
“Damages”はDVDレンタルがされているので、そちらを見て欲しいけれども、フラッシュバックを多用した、相当込み入ったシナリオになっているので、上のTIMEの記事でも触れられているように、DVRやストリーミングのようなリアルタイム視聴を保管してくれるような物理的環境や、ブログやSNSによる「瞬間的なファンダム」に支えられた鑑賞の補強環境が存在しないと、視聴の継続はかなり難しいことになる。
ということで、「ERの終了」は「Damage的なものの常態化」を意味し、これは、いわばBig Show, Big Audience, Big Money、がテレビの中核となっていた時代(=地上波テレビの時代)の終了を意味する。上で紹介したTIMEの記事は、こうまとめているようだ。
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とはいえ、この論評が日本にも当てはまるのか、というと、多分違うだろう。
上で書いた“Damages”的なドラマだったら、それこそ『ケイゾク』のようなドラマが、既に作られていた。そうしたプロットを追いかけるための補強教材として、テレビ雑誌が何冊もあった。アメリカでReality TVがいわれる前に、視聴者参加型の番組も90年代初頭からいくつもあった。
だから、上のTIMEの記事の表現でいえば、日本は「90年代には(アメリカが2000年代まで継続させた)地上波テレビは終了していた」ということになるのだろうし、日本の側から見れば、これは「アメリカの映像文化は、これから、ようやく日本の90年代を迎える」ということになるのだろう。
どちらが進んでいるとかいないとか、どちらがいい悪いとかではなく、端的に、日米では、映像文化の背景の事情(文化的、経済的、社会的な事情)が違う、ということだけ。
ただこの先どうなるか、もっといえば、アメリカは日本のようになるのか、というと、多分ならない。アメリカは、今後も人口増が見込める数少ない先進国の一つだから、足下の経済後退を乗り越えれば、消費促進用の予算を投じるだろうし、映像作品のディストリビューションについてもネットを活用する方向に舵を切っているから、衛星放送とは違って、グローバルにフラグメントされたオーディエンスを束ねる方向に向かうだろうから(もちろん、ペイか広告(というかスポンサーシップ)か、という収益形態に対するジレンマはメディア業界の内部の問題としては20年ぐらいは継続されることになるだろうけれども)。
最近になって、日常閲覧している、NYTやWSJでもバナーが日本のものになってきた(実は、NYTやWSJの紙面の雰囲気とおよそ似つかわしくないバナーが出てきて結構ゲンナリしているのだけど。こういう「キマイラ」な画面、つまり、およそ似つかわしくない二つ以上のイメージがランダムに同居するような場面って、これから増えていくのだろうけど、どちらかというと、ペイに向かわせるための嫌がらせのようにも最近は思えてきた).。遠からず、NBCのニュース映像の広告も日本のものに差し替えられるようになるだろう。そうするとDVDセルのリージョン・コードのような困ったルールに悩まされることもなくなるのだろう(洋書はAmazonで購入してもそのまま読めるのに、DVDは見られない、というのは、さすがにどうかと思い始めている)。
もちろん、グローバル展開に失敗して、アメリカの内部でフラグメンテーションが進む可能性もあるのだけれども。
まとめると、ERの終了は、時代感覚的にには、90年代の映像文化潮流がようやくアメリカでも終わったことになり、今後、2010年代の世界映像配信に向かって、映像製作・消費体制が大きく変わっていくことになる、ということなのだろう。折しも、アメリカ国内でのブロードバンド配備にもきちんと政府が取り組もうとする状況にあることを考えると、「終わり」から「始まり」への転身は存外早いのかもしれない。そのとき、どんな「新しいジャンル」が提案されるのか、楽しみに待ちたい。