日頃聞いているPodcastでOnPointというのがあるのだが、そこで、(今更ながらな感じはするものの(苦笑))、ブログ・ジャーナリズムに関する特集があった。(番組はこちら)。
(もともと、この番組は、アメリカでまた、新聞の発行部数が落ちた、というニュースに影響を受けたもの。いわずもがなだが、今回の大統領選でもブロガーの影響は大きい。その対照的な動きがこうした番組を可能にしている)。
この手のラジオ番組の構成での定石ではあるけれど、Pro/Con、つまり、ブログ・ジャーナリズムについて楽観的肯定派と懐疑派をゲストに呼んで、各々、主張をぶつけあう。今回は、ベースが肯定派で、それに懐疑派が疑問を呈すというトーンだったが。
肯定派は、アトランティック・マンスリーという、アメリカの政治・文学高級誌の編集にも関わっていて、自らブログを毎日書いている人。一方、懐疑派は、コロンビア・ジャーナリズム・スクールのディーン(学部長)。
肯定派は、自ら書いている人だけあって、要するにいろんな設備やらなんやらがいらずに誰もができる、という点を評価。懐疑派は、ブロガーが援用する情報は、Institutional Journalism(ジャーナリズム機関。要するに、マスメディアの報道のこと)の取材内容に頼っているから、ブログ・ジャーナリズムだけでは自律しない、ということ。
どちらもよく聞く話で、それほど目新しいことはない。
にもかかわらず、これを取り上げようと思ったのは、肯定派の人物の、あまりに熱の入った説明の仕方のところ(だから、できれば、上のサイトで実際に聞いてみてください)。この熱意は、半ば、アクティビスト(活動家)の要素が入っている。思いっきり熱弁をふるっている。
ちょっと表現が難しいのだけど、いわば、ジャーナリストでもアーティストのような域に達する人がアメリカではいる、といえばいいか。言葉で人を動かす。要するに、Rockの精神が書き手にもある、ということ。これは、日本では見られない現象。そうして、Rockできるジャーナリストが、ノンフィクション部門で大成すると、小説家と同じように、オーサー(author、作家)と呼ばれるようになる。
だから、彼の発想は、音楽の分野で、アーティストが、レーベルの力学から離れて、直接ファンとつながりたい、と思うのに近い。裏返すと、彼らの才能で食べさせてもらっている仲介層の人々(=レコード会社や新聞社)は必ずしもなくてもいいじゃないか、なくてもなんとかなる、オレの音楽(書いたもの)でカネは入ってくるから、という楽観的な、あるいは、いささか唯我独尊な見通しがある。
日本だと情念のある書き手は、もっぱら小説家に向かう感じではないか。感覚的には、古川日出夫みたいな人が、ジャーナリストとしてそこら中にいる、という感じか。
ちなみに、懐疑派のポジションを取った人は、先述のように、コロンビア・ジャーナリズム・スクール(CJS)のディーンなので、彼が、Institutional Journalismを擁護するのは、構造的にもしょうがないかな。なにしろ、CJSはピューリッツァー賞の選考を行うくらい、20世紀初頭にできた、プリント・ジャーナリズムとの繋がりが強いので。というか、もともと、ジョゼフ・ピューリッツァーの寄付でCJS自体がスタートしているので。
いずれにしても、ジャーナリストも文の書き手としてRockできる、そうしたRockする書き手にとっては、ブログは格好のツールだった、という話だと思う。だからこそ、アメリカでは、ブログ・ジャーナリズムの言説が、(今回のように)何度も反復されるのだと思う。