アメリカン・ジャーナリズム、アメリカン・ナラティブ

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October 23, 2008 11:29 jst
author
junichi ikeda

11月の大統領選を目前に控えて、アメリカでは、報道(=メディア自身の動き)と選挙PR活動(=メディアを通じた動き)が活発化している。大統領選自体がオリンピックと同じく四年に一度のイベントであることを感じさせられる。

それ以上に、興味深いのは(そして、これは多分日本人にはわからないことだが)、メディア(テレビからインターネットまで、映像からテキスト、音声まで)を「通じて」リアルタイムで選挙情勢を動かそうとする流れがあることだ。

主要報道メディアは連日、独自のpoll(=有権者調査)を発表し、その「客観的」データを元に選挙戦に影響を与える。結果を見ながら、候補者は、swing statesと呼ばれる、デモクラットとGOPの支持が拮抗している州を集中的かつ精力的に遊説に回る。ここでもよく触れている、Meet the Pressのような政治討論番組を通じて、候補者をとりまく人々(選挙スタッフや、連邦議会議員、州知事などの党内賛同者、など)が、自陣の優位になるよう主張を行う。時には、先日のパウエルのオバマ支持表明のような隠し球的イベントが、直近の選挙戦への効果を考えながら行われる。私はNYのことしかわからないけど、今頃マンハッタンではいわゆる「アウトリーチ(=集票活動)」のために路上で支持を訴えるボランティアの人々がいるだろう。コロンビア大学やNYUのキャンパスの周りでは、新規有権者として「登録」を促し、投票に向かうよう働きかけていることだろう。そうしたグラスルーツの動きは、ネットを通じてより広範囲の動員をかけているし、そのネットでのアピールには、先日のマッケインのケースのように、YouTubeなどのビデオサイトを通じて最後の主張がなされる。そうした有権者=視聴者の動きを見ながら、SNL(Saturday Night Live)のようなコメディ・ショーでは、候補者の振る舞いをネタにした、ユーモアあるが時に辛口の批評が行われ、笑いを通じて、候補者の主張の意味が叩かれていく。そのポピュラリティのある動きが、また選挙本部にも影響を与え・・・。

こうした動きが、今、アメリカでは行われている真っ最中だ。

端的にいって、メディアを「通じて」人々の行動に影響を与えようとする振る舞いが頻繁に見られるし、視聴者の側も、なかばそうした動きを楽しみながら、時にその流れに乗る。一種の作為性がそこにはあるけれども、その作為性をむしろ積極的に受けとめて、そこから次の動き=現実、を創り出そうとする。そういう傾向がある。

つまり、メディアとの付き合い方が、シニカルではない。いや、シニカルに受け取るところはあるのだが、同時に、メディアで報じられた内容を、自分の周辺の現実に反映させるし、反映させたものは回り回ってメディアの中に登場しうる、そうした「手応え」を感じている、といえばよいか。メディア・リテラシーで言われるような批評的視点はもはや織り込み済みで、というか、普通に人の話を聞くときと同じような感覚で、眉につばつけなら聞くところは聞くし、素直に感動するところは感動する、という感じ。

だから、その分、アメリカのジャーナリズムは、事実と意見の峻別に非常にこだわる。不偏不党などおよそあり得ない。そんなことしたら、読者や視聴者に働きかけるものがなくなって、結果的に「第四の権力」と呼ばれる地位が危なくなるから、意見なり見解なりは出すのが当たり前だ。そうした見解は、自社社員であるエディターやシニア・スタッフが書く場合もあれば、主張の方向性がおおむねシンクロしている専属のコラムニストと契約して定期投稿してもらう場合もある。

というか、上杉隆『ジャーナリズムの崩壊』によれば、そうした見解の表明こそが(アメリカン)ジャーナリズムの真髄であり、ニューヨークタイムズやワシントンポストなどの新聞が行うことである。単なる事実伝達、とりわけ第一報のような伝達は、ワイヤード・サービス(=APなどの通信社)が行う業務に過ぎない。

(興味深いのは、メディアの伝える内容を鵜呑みにしてはいけない、というメディア・リテラシーの動きは、最初はカナダで起こったこと。アメリカから流入する映像内容の作為性を最初に意識したのは、隣国の似てるようで異なる文化を持っている人たちだった。同様に、アメリカ国内でも、いわゆるメディア・スタディーズは、中西部の、つまりNYやボストンのある東部でもなく、LAのある西部でもなく、連邦レベルのメディアを周辺に持ち得ていない中西部の大学や新聞を中心に検討が行われてきている。このあたりは、文献だけを渉猟する日本国内のメディア関連の研究者やジャーナリストが見過ごしがちな落とし穴の一つ)。

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このように、アメリカの場合、メディアと対峙する時の姿勢が、シニカルではない。むしろ、聞くべきところは聞く、という視聴者の姿勢が、メディアの側でも、視聴者の側でも、共通の「期待」として成立している。そして、これは、とどのつまり、誰かが発した言葉に対峙する時の姿勢が、アメリカの場合、日本と違うからなのではないか。

で、そうしたメカニズムの違いの背景を説明する補助線として、アメリカン・ナラティブ、という考えが使えると半ば確信してきている。とはいえ、そうしたメディアの状況の説明が長くなったので、アメリカン・ナラティブのことは次のエントリーで記そうと思う。