HEROESと《地球化》の時代

latest update
July 22, 2008 11:28 jst
author
junichi ikeda

アメリカのテレビドラマのHEROES、この三連休で一気に見た。

PVをどこかで見たときに、またXメンのパチモンのようなものをつくって、と侮っていたのだが、結構面白かった(もっとも、いわゆる「海外ドラマ」というカテゴリーには大体あてはまるものだが)。少なくとも、もはやドラマなのかタレントのパブなのかわからなくなっている、日本の、ジャンル特定不能の映像製作物よりは、はるかによくできている。いや、そもそも比較対象として、日米のドラマをとりあげるのは間違っているのかもしれない。それらはもはや同一平面上にないものなのだから。

HEROESの面白さはいろいろあるのだけれど、たとえば:

登場人物が全米(+インドと日本(東京))に散らばっていて、当初は同時多発的に始まっていた物語が、回が進むにつれて一点に集約していく、そのプロセスと結果的に生じる物語的カタルシス。(従来は、東海岸=NY、西海岸=LA、という二元的な対立だったのが、ここにテキサスやインド、東京、が加わったのは、アメリカ文化のスプロール現象も象徴している)。

さらに、これはアメリカだから語れるところだが、社会の随所に埋め込まれた様々な「葛藤」を切り出し、物語的にうまく処理しているところ。地理的な広がりは上で指摘したけど、その他に、多民族・多文化の側面、家庭不和の問題、養子縁組の問題、政治家と選挙資金を巡る問題、などが埋め込まれている。

社会問題としては既にあって、視聴者もそれなりに理解可能な対象としてこうした問題がある。そして、こうした問題が、(多少あざとくはあるけど)、物語を進める(=登場人物を物理的にも心理的にも動かす)ための動因として利用されている。その動きの中で、物語展開上必要な情報や人物、事件と遭遇していく。煎じ詰めると、「家族」と「(コミュニティ的)連帯」につながるような「葛藤」「焦燥」を、登場人物の内的駆動因として活用していくわけだが、このあたりは、アイデンティティ・ポリティクスというか「自我」心理学が中心のアメリカらしい演出で、とてもわかりやすい。「葛藤」の所在を人々に知らしめる、という啓蒙的=モダンなメディアの役割も捨て置かないところは、とてもアメリカらしい(報道と娯楽が事実上新聞とテレビで役割分担している日本ではこういう展開は難しい。例外的というか代替的な作品は一部アニメーションの世界にあるようだが、これはまた別の機会に)。

*

とはいえ、HEROESにしかけられた物語上のトラップは、やはり、ヒロの存在だろう。

東京から超能力で飛来したという設定で登場したのが、日本人のヒロで、彼の(良くも悪くも)ヒーローになるという自意識と他者に対するお節介が、バラバラだった登場人物たちを、強制的につなげる役割を果たしていく。

彼の能力は時空跳躍=テレポートだが、その能力は物語構成のためにはワイルドカードになる。なぜなら、時空跳躍の力をつかえば、どんな時にもどんな場所にも行けるため、都合よく彼を配置することで、何でもありにすることができる。

だからだろうが、彼だけが劇中で成長やレベルアップという試練を課される。能力をまだ自由にコントールできないという設定によって、ご都合主義的に彼が跳梁跋扈する可能性を、見た目は封じている。

ただ、初見では、「いかにもアメリカ人が見た日本人」という彼の描かれ方が日本人としてはグロテスクで嫌だったのも確か。ロードームービーさながら一緒にアメリカを旅する同僚のアンドウ君を含めて、そもそも、そんな日本語使わないぞ、というツッコミも含めて。

ただ、この違和感も、ある補助線を導入することで、解消され、むしろ、妙に納得してしまった。その補助線導入以降、むしろ、HEROESは面白く見れるようになった。

その補助線とは、「ヒロ=妖精さん」。

ヒロとアンドウをなまじ日本人として捉えるから不気味に見えるのであって、そうではなく、彼らを英雄譚でお約束のように登場する「異界の住人=妖精」と考えれば、上で指摘した彼の能力も含めて、極めて納得がいく。

というか、最初は、何ですかー、これ?、って感じだったのだけど、途中で、「そうか、彼らは妖精さんの国である日本から来たフェアリーさん達なんだ(苦笑)」と捉えるようになったら、妙に納得できた、というのが真相。

ヒロとアンドウが話す珍妙な「日本語」も、なまじ僕らが日本語をわかってしまうから不思議になるだけの話であって、主たる視聴者として期待されているアメリカ人ならびに英語圏の人々からすると、とにかく「意味のよくわからない言葉をしゃべっている不思議な人型の存在」ぐらいにしか見えない。

ヒロたちが妖精として扱われているのが対比的にわかるのは、作中でのインド人たちの扱い。同じ外国人としてインド人の登場人物(モヒンジャー)もいるにもかかわらず、インド人はきちんと英語をしゃべる存在として普通に物語に組み込まれている。もちろん、インド人=数学に強く知的、インド=スピリチャルな伝統がある、という一般的なイメージは、うまく利用されているのだけど。

つまり、日本は、ファンタジーの国、と見られている。

第一話冒頭の、漢数字が書かれた時計とか、芝生のある屋上でラジオ体操するのとか、アンドウ君の話す日本語の珍妙さ、とか(笑)。これらは全て、日本=ファンタジーの国、という区分を際だたせるためだけに描かれている。ただただ、アメリカとは違う、英語圏とは違う、という位置づけ(思いっきり、オリエンタリズムが投影されている、ともいえる)。

だから、気をつけなくちゃいけないのは、日本人がどう見られているか、というように僕らの自意識から見るのではなく、アメリカ人(+英語圏の人々)が日本人をどう見たいか、という、彼らの欲望から、ヒロたちの描写を受けとるべきだ、ということだろう。

ヒロのほかにもう一人、成長する登場人物として、NY在住で(ユダヤ系ではなく)イタリア系のピーターがいる。彼のもつ感応能力は、他の能力者の能力のコピーを行ってしまう。ヒロの能力が製作者(監督や脚本家)から見たワイルドカードであったとすれば、ピーターの能力は劇中でのワイルドカードとなる。つまり、原理上能力のフルコースが実現可能であるため、全能の存在=最強の存在、としての潜在力をもっている。それゆえ、ピーターも劇中では、そのワイルドカードを制御しきれない存在として描かれ、彼も成長譚を経験する。つまり:

ヒロ=実作者にとっての神、
ピーター=登場人物にとっての神、

という構図がなりたつ。

ただ、ピーターの成長譚は、同時に、彼の家族にとっての物語であり、いわば、物語全体の駆動力を持つ話。一方、最終段階で同じく家族譚の様相を呈すヒロの話は、しかし、家族と言うよりは、師と弟子の関係であって、どう見ても、これは「侍」というイメージに引きずられている。というよりも、むしろ、能力の発現要因として伝説の日本刀が必要だ、という話が出てきた時点で、微妙に聖剣伝説のような要素も込められていて。だから、やはり、ヒロは日本という「妖精の国」の住人、と考えるのが妥当だろう。物語進行上の触媒としてのヒロの役割は、普通に考えればかなりトリッキーな位置づけなのだが、おそらくは、妖精が持つ無垢な善意、という了解のされ方で、登場人物も視聴者も、ともに納得してしまう。

だから、ヒロ=妖精、なのだ。

で、もうすこし、グローバル・コンテント・ビジネス(という無粋な世界(苦笑))に引き寄せて表現すれば、かつてのように西欧だけに閉じた時代であれば、中世にとばされたりすれば(たとえば、マイケル・クライトンの『タイムライン』)物語的にokだったのが、この多文化主義の時代、そして、ネットを通じたコンテンツのグローバル流通の時代では、とばす先は、同時代の、東洋の神秘の国で、いいじゃないか、ってこと。

作り手の視線が、まんまオリエンタリズム丸出しなところも、むしろ、それくらい、グローバル化=地球化が、通俗化して全域化している、ってことの現れと捉える方が建設的なのだろう。

最近ようやく、日本国内でも、90年代を『失われた十年』といって、日本が内閉化していたことを見直す風潮が出ているけど(一番わかりやすいのは、かつてのPC98同様、国内でしか利用できない端末を普及させたカドで責められているドコモなど)、そのネガとして、グローバル化した世界(といっても英語圏であることは一応要注意)からは、不思議の国=日本、としてとらえられている、ということか。

ヒロを演じた役者さんは日本生まれってことのようだけど、同僚のアンドウ君やヒロの父親役の人は、多分、韓国系か中国系。劇中、アンドウ君が、警察官の格好をするのだが、その姿が妙にりりしくて、とても日本人とは思えないというのも不思議だった。体格や骨格が違うのかな。

シナリオ上、極めつけの台詞は、ヒロがアンドウ君とともに、白人女性に「中国人」と決めつけられたときに、「僕らは中国人じゃない、日本人だ」と答えたところ。これは、海外渡航した日本人の心理をうまく突くと同時に、アメリカ人一般が東洋人を中国人ないしは韓国人と思っていることの表れでもある。

実際、NYにいた頃、バスや地下鉄などの公共交通を利用する場では、日本人と呼ばれることは皆無だった。場所柄を反映してか、韓国人か、中国人として間違えられていた。よく指摘された笑えない話は、「英語話すから韓国人(or中国人)と思った」というもの。

ここから、最後に思いきっりマクロな方向に逸脱すると、安倍政権以後、人口減を主たる理由として日本企業の国外進出(とその総称としての「日本の競争力」)が叫ばれるようになって、進出先としてアジア諸国を語る日本の経営者は多い。これは、海外といっても、先進国である欧米での獲得は困難だから、という事情の裏返しだと思うけど、しかし、そういう「アジアへ」という発現の時に気になるのは、どうして無前提にはアジアならば日本も何とかなる、と口を揃えて言えるのか、ということ。上で指摘したように、NY(あるいはLAでも)でアジア系と言えば中国人であり韓国人。その他のアジア系(ベトナム、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、・・・、インド、パキスタン、・・・、カザフスタン、タジキスタン、・・・)の人々も普通にマンハッタンの風景の中にとけ込み、英語をしゃべりながら生活していた。

素朴な印象として、遙かに彼らの方が、生活習慣まで含めて、過去20年間ほどのあいだに、アメリカの(そして欧州の)よいところを多く学んでおり、米欧との人脈もきちんとつくっている。そういう印象を持った。ちょうど、日本が後発近代国家としての船出を、明治維新の頃に行ったように、愚直に、貪欲に、誠実に、米欧との連携を組み込んだ上で。

HEROESも、こうした地球化の磁場の中でできあがった作品として見ることで得るところも多いのではないか。もちろん、ウェルメイドのドラマシリーズであることは間違いないのだけれど。