soft power?

latest update
January 21, 2008 11:23 jst
author
junichi ikeda

年末年始に、今更ながら、森博嗣の小説を集中的に読んだ。
ことの発端は、12月の彼の文庫の新刊(『φは壊れたね』)で、西尾維新が解説を書いていたこと。NYから帰国後二年間の空白を埋めるべく様々なメディア作品(いわゆるコンテンツ)を渉猟しているときに赤丸急上昇的に取り上げられていたのが西尾維新だった。

このあたりのことは、機会を改めて買いておこうと思うが、ポイントは、ちょうど日本を留守にしていた2003年から2004年頃にネットを中心に「書き物」を中心に受容のされかたが変わり始めており、そのときに、それまで(というのは90年代に主に開発され蓄積されていた)書き物に関するリソースが比較的社会の前面に出てくるような状況があり、いわば、その象徴的な存在として(少なくとも帰国時の2005年に)取り上げられていたのが西尾維新だった。

ちょうど同じ頃、「21世紀はソフトパワーが大事→だからコンテンツ産業の育成が大事」というなんだかよくわからない理屈で、政府が(とういことは財界や官僚も含めて)コンテンツ産業というところに資金注入をして盛り上げていた時期でもあったため、それまで周縁的存在だったコミケやら同人やらに焦点が当てられてしまった時期でもあった。

ちょっと補足しておくと、「ソフトパワー」という言葉自体は、ハーバード・ケネディスクール(ここは政治に関わる専門家を育成する学校。ビジネススクールの政治版みたいなもの。私がいったコロンビアのSIPAも同系列のスクール)のジョセフ・ナイという政治学者が、これからの国際政治は「(軍事力のような)ハードパワーではなくソフトパワー」による統治が大事といったことが発端。要するに、武力やら暴力に訴えずに相手を統治する手練手管のことだったのだが、どうやらコンテンツ産業を育成する大義名分が欲しかった経済官僚に意図的に誤読されてソフトパワー→コンテンツ産業≒マンガ・アニメ産業の育成、ということになったようだ。

本筋に戻ると、その西尾維新が影響を受けた作家というのが、上述の森博嗣であり、京極夏彦、清涼院流水、といった(これは後で知ったのだが)いわゆる講談社ノベルズの作家(とマンガ家の荒木飛呂彦)だったということ。で、このことを思い出して、森博嗣に当たってみた、ということ。

ただ、その作品論とか作家論とかをここで考えたいのではなくて、西尾的なものが生まれるための母胎というものに注目したいと思っている。

というのも、これも昔の話になってしまうのだが、もう10年以上前になるけれども、DVDが発売される前にDVDというフォーマット(今なら多分プラットフォームというと思うけれども)をそもそもプロモーションするような作業をしていて、DVDの可能性について議論していたからなのだが。

・・・と、うまく書けていないな。

気にかかっていることは、ネットを前提にしたときのコンテンツの消費やら開発やらの方法論について何らかの見通しをもてないか、ということで、これは、ネット的環境が常態化したときの、メディアへの接触や広告の機能と関わるように感じている。

・・・と、これもうまく書けていない。

いずれにしてももう少し頭の整理が必要かな。
(それにしてもひどいエントリーだ)。