YouTube上で、今年のスーパーボウルの広告ランキングサイトが展開されている。
ランキングという他愛のないことだが、実際にこうやって51個CMクリップが並ぶと、あーこういう時代なんだと再確認される。
○一過性のCMを比較するのって、実際はむずかしい。印象論でしか語れないから。それを、一カ所に集めて並べてみる、という視聴が、マスのレベルで起こることの含意は結構深い。
○「比較」は当然、「比較のための視点」という「批評眼」に関する論争を惹起する。きっとああだこうだ言われるのだろうが、そのプロセスで、それなりに評価の視点なるものが浮き上がってくる。
○だから、いまさらながら広告「批評」となる。
○さらに、一同に介して批評の目にさらされることになるから、ここだけCMの文脈が変わる。エンタメの要素は強まるだろうけど、それだけでなく、「へぇ」と嘆息する要素も試みられることになる。
○もっとも、これは、SuperBowlという、国民的イベントが裏でずっと実はCMの祭典であった、という歴史的文脈も大きく影響している。ということは、2008年の北京五輪の公式スポンサーのCMとかも、こうしたCMの祭典、CMのバトルロイヤル、になるってことではないのか、と想像する。
・・・と、なんだかんだいって広告業界への余波は大きい。
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ちなみに、素朴にあはは、と思ったのは:
○カーナビのこれ。
カーナビのCMでこんなことして意味があるのか?っていうくらいばからしい。
しかし、こんなところで、日本のウルトラマンというか、ミラーマンのような設定が引用されるとは。
もしかして、円谷プロが制作協力していたりして・・・。
○清涼飲料水のこれ。
全編CG制作で、きっとあえてポリゴンの精度も落として、CGですよ!ってことまで理解させようとしているところも興味深い。
端的にいって、ゲームが今後Googleの検索対象になるというのをいろいろと暗示させてくれる。
また、そうした「広告の新たな土台」そのものの提供が当初は新規なモノになるので、その土台そのもののていきょうのとトライアルが充分、大手広告主の提供対象になる、というところもおもしろい。過渡期には必ず現れる事態。
アメリカ的なマッチョさがよくでている。
それから、映像的にも結構、これどうやって撮ったんだろう、という緊張感がある。手に汗握るし、冷や冷やする。
しかし、この一歩間違えば甚大な「破壊」=「暴力」イメージの臨界に近づけてしまええるところがアメリカ的と言えばアメリカ的。
とにかく、説得ではなく、状況を映像を通じて想像的に体験させる方法。視聴経験を通じて、パフォーマティブに当該商品の効用を暗示させるのは、広告の構成の点では、日本の今のCMで一番欠けているところかもしれない。
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ただし、広告とは《広告である/ない》のコードを常に脱臼させながら進行する表現形態だ、という社会学者の視点からすれば、広告がエンタメ化するという事態では収まらないに違いない。
実際、はなやかなCMコンテストの傍らで、各商品関連の検索ワードは事前にセットで買い占めされているし、当のYouTubeのサイトも、素朴に考えたら、各CMの脇に提供企業のサイトへのリンクがあってもよさそうなところにはない。きっと、これも検索させるのだろう。となると、CM映像自体は、検索ネタを提供する入り口でしかないともいえる。
だから、単純に「広告を楽しむ」といいきれないところがある。本当の広告は、目先の広告の奥に控えているわけだから。