広告的なものの遍在

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January 22, 2007 09:57 jst
author
junichi ikeda

以下はメモ。

「あるある大辞典」に関する問題。

大きな原則として、広告に完全依存する媒体については、企業活動と完全に結託してしまう可能性が常につきまとう。その瞬間、みんなのものと思っていたメディアは、特定の集団の宣伝マシンになってしまう。だから、実は、社会的影響度の高いと目される媒体については、何らかの規制が必要だ、ということになる。

・・・と、こうした文脈が、最近の省庁再再編の話の中でするっと言及されている、消費者保護の省をつくろう、というもののようだ。

もっともらしく理解をしようと思えば、こんな感じか。日本の企業の競争力を増すためには自由な競争環境を整える必要があるが、そうするといわゆる「市場の失敗」がもたらす不利益が後日顕在化する可能性がある。だから、自然については環境省で対応しましょう、人間については新設する消費者保護省?で対応しましょう、という構図。

その一方で、広告活動というのは、極端なケースではウソやら詐欺やらとみまごうぎりぎりのところまでいってしまう可能性は常にある。そのとき、その境界をどう定めるか、仮に定めたところでその監視をどうするか、という課題は生じてしまう。加えて、そうした表現のぎりぎりをどう捕まえるか、という問題も生まれる。こちら側での極論は、事前検閲、ということになる(薬関係では厚生労働省が今でも表現内容をチェックしているように)。で、これは、一歩間違うと「言葉狩り」になりかねない。

そのとき、アメリカならFreedom of Speechとかいって、抵抗する手だてもある。そうやって、消費者保護、表現の自由、企業活動の自由、安全の確保、といった異なる価値スケールのゴールを調停することの困難さがとりあえず報道され、その困難さを理解した上で、司法(判決)や立法(議会)を通じて、暫定的であるという留保を重々理解した上で、解決が図られる。

だが、日本ではどうなのだろう。

あるあるの売上への効果は随分と前から指摘されていて、スーパーのバイヤーの仕入れのために、番組情報を知りたがっている、というのも随分と前から(多分2000年くらいから)いわれていた。

で、今日では、よりスムースにこうしたシステムを稼働させるために、ネットの上でのキーワード買いやアフィリエートというシステムもある。番組がきっかけで、同時多発的に生じる人びとの間の推奨行為は、容易に噂やら都市伝説に転ずる可能性もある。

いわば、広告的なものがそこら中に遍在する状態が容易に生じうる状況にあるのだが、さて、そのとき、消費者保護やら表現の自由やらといった異なる社会的価値の調停はどうやってなされるのだろう。

あるあるの一件は、どうも今日的な広告遍在状況のエッジを示す出来事のように思うのだ。