広告の変化:アメリカ編

latest update
January 03, 2007 11:43 jst
author
junichi ikeda

Madison Avenue Sifts Through 'Clutter'

【January 3, 2007: Wall Street Journal】

アメリカの広告の変化をコンパクトにまとめた、年初らしい記事。
いずれにしても、Clutter=接触分散、への対応がポイント。

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以下、記事中で取り上げたポイントを紹介しながら、日本とのズレを記しておく。

■Fewer Ads

視聴分散の中で、1時間あたり15分詰め込まれるCMを見せられても記憶に残らないでしょ?、ということで、スポンサー数を絞り(理想は一社)、その分CM時間やCMのバリエーションを減らして記憶刺激を増す、というもの。

意地悪な見方をすると、大手広告主の囲い込みに入っただけ、ともいえる。

というのも、アメリカでテレビCMが問題となっているのは、あくまでもROIを引き合いにしたものだから。これは、「CMの効果は(ネットと違って)説明できない」にもかかわらず「単価は高いし、先物買いさせられるってのは、サービス業としてどうよ?」という点からの不満から発している。

で、メディアの方からすると、CM単価が値崩れの方向に向かうぐらいなら、予算規模の大きい業種の広告主(自動車や食品・トイレタリーあたり)を、囲い込む方が得策だ、という判断に見える。

これは、コンテンツ制作側が、独立企業として成立しているアメリカと、事実上、テレビ局を中心として広告中心で回ってしまっている日本、とでは、状況が異なる。おそらく、日本の場合だと、こうした新たな一社提供のようなことをしようとしても、その対象となるようなコンテントが存在しない(局もつくれない)というのが、現実的に生じることのように思う。それは、情報番組、スポーツ中継、お笑い、・・・、といった番組が中心になって、テレビ番組自体が、娯楽のデスティネーションを引き受けなくなっていることとも関係していると思う(このことは別途思案してみたいと思う)。


■Jazzing Up Search Ads

検索連動広告がより、キーワードの提供に注力している。テレビやラジオの広告のジングルで、検索対象となるようなキーワード、フレーズを埋め込む、ってことらしい。

日本だったら、情報番組の後に、関連した情報が幾つか検索されて、場合によっては、楽天やアマゾンで実売につながる、というのがそれ。こう考えると、言葉をどうやって囲い込むか、という、一種の言葉狩りのような事態も引き起こす。そうそういつまでも続くモノではないのでは。限界事例で考えると、人々が発する言葉に必ず何らかの企業の宣伝がひもつくような事態というのはどうなのか。どうなのか、というのは二つあって、一つは、そんな社会は窮屈だからいつか誰かが抵抗するんじゃないの(これはアメリカというかNYでありそう)、ということと、もう一つは、そんな生活が消費活動で溢れているのは今に始まったワケじゃないから、そんなことぐらいでオタオタするなよ(これは日本というか東京でありそう)、ということ。

何にせよ、こうした動きは、いわゆる「バズ効果」になるが、それが誇大評価にならないように気をつけるのが肝要かと。ネットやケータイの一種の詐術は、全てがトレーサブルで可視化可能、ということだが、それは裏返すと、今までわからなかったこと、見えなかったことが、見えるようになっただけのこと。顕微鏡や望遠鏡を得たようなもので、顕微鏡や望遠鏡を得る前と観察対象が変わるわけではないから。

しいていえば、人間社会は、その観察結果を再度社会の方にフィードバックできるところが違うのだが、その場合は、「消費者のニーズをどう読み取るか」が課題ではなく、「消費者のニーズをどう制御するか」という方が課題になる。つまり、ポジティブにどう働きかけるか。この点は、環境管理型権力といわれる、ドゥルーズが管理社会化の中で描いたこと。その判断は、商業活動を超然と見るようなアカデミックな立場を取らない以上、留保しようと思う。ちょうどコールハースがそうするように。

■"Me" Media

企業が、ネット内のもの書きを直接サポートする動きがでている。企業や広告会社からすると、ブロガーやこうした個人で寄稿している人は、視聴者と広告主の溶融した存在として、一般の企業と消費者の媒介項として役に立つから、というのが理由らしい。彼らのサイトには、より特定の個人(企業からすると見込み客)に対して、relevantな書き物があるから。

これは、日本では微妙な動き。仮にそうした人物がいたとしても、日本の場合は、雑誌やテレビの関係者がめざとくそうした人物を取り上げて「プリカリスマ」にしてしまい、第三者の立場、媒介項の立場を無効にしてしまいがちだから。声をかけられる側の人間も、メディアへの誘惑は断ち切りがたいところがあるのも確かだから。

これは、日本の中にアメリカのような、大手消費者団体やら、消費者の利益を重視する大手メディア(たいていの新聞はリベラルが信条なので消費者側に立つ)が、実質的には存在しないことも影響していると思う。

もっとも、昨今の、消費は進まない「好景気」という日本の状況を見ると、実は消費者からの・・・、というのは、中長期的には一種のバランスを取るために、積極的に取るべき立ち位置なのかもしれない。好景気といっても、企業のバランスシートやPLがよくなっただけの話で、消費に回るだけのカネや時間がなくなっている、というのは、企業やメディアの人と話すとよく出てくる話題。

■Making a Choice

双方向TVの活用として、視聴者にアクティブに選択させよう、・・・。

この手の話は、アメリカのメディアや思考につきまとう、「アイデンティティ・ポリティクス」への偏差を考慮しない読み間違うところ。特に、日本の場合、就業経験のない商学部の先生や、商売経験のない新聞・雑誌記者が、ついつられて書いてしまう、「個人礼賛型」マーケティングになりがちなので、要注意。とりわけ、80年代を経験したバブル世代からは、男性女性問わず、出てきそうなネタなので、会社の企画会議の折には注意しましょう。

■New Yardsticks

新たな効果測定指標が必要だ、というもの。今までの指標は、視聴率や発行部数など、あくまでも「広告を見てくれる」見込み視聴者・読者数に過ぎないから、というもの。これは、日米問わず同じこと。