インターネットマガジンの休刊

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April 06, 2006 10:04 jst
author
junichi ikeda

定期購読していたインターネットマガジンが今出ている3月号で休刊する旨の通知が届いた。

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昨年帰国して、しばらくたってから、書店で見かけたときには、余りの薄さに驚いたことを覚えている。10年ぐらい前にはカタログ雑誌並みにぶ厚いものだったのに、あららどうしたのかと。で、この薄さで1000円は正直高いんじゃない、と思ったりしたわけで。

極めつけは、ネットに存在するGooglezonの紹介記事や、CNETにあるWeb2.0の記事の翻訳が、わざわざ特集として組まれたときかな。こんなネットの上で読めるものを、こんなに遅れてわざわざ訳出してどうするの、と。少なくともGooglezonの話は、NYにいた時に触れていたわけで。これじゃ、雑誌として続かないんじゃないの・・・、と思っていたら、案の定、休刊になってしまった。

インターネットマガジンといえば、ネットの黎明期には業界情報が詰まっていたし、当時はそこに挟み込まれるもろもろの広告も含めて一つの情報だった。アスキーやソフトバンクの雑誌に比べて、アカデミックで専門的でありながら、ちょっと未来志向的でもあり、それでいて実用的であった。けれども、そうした情報+広告はいずれもネットに移ってしまった、ということなんだろうな。文字通り、vanishing mediator=消失する媒介者、をベタに演じたわけだ。いまや、バナーや企業サイトの情報だけでなく、AsSenseやAdWordsで、ネットの世界が原則透明に探索可能な時代だから。昔だったら、雑誌に書くしかなかったライターもBlog経由でいろいろと意見表明ができるようになった、ということか。

だから、このインターネットマガジン休刊の動きは極めて兆候的なものだと思う。

情報は既に常にネットの上にある。そこにはリンクをはればいい。だから、ちょっと工夫をすれば、オリジナルの情報や資料に到達することは普通の人でも可能だ。しかも、IT業界のように時々刻々情報が更新されるような世界に、紙のようにタイムラグが生じる媒体では、原理的に追いつけない。そもそも、ITだと開発の本場は英語圏で、本当に情報を求めてる奴は、自分で英語サイトも渉猟している。かくいう僕もその一人なわけで。

しかも、英語サイトの情報の質・量になれてしまうと、半端な日本語サイト(含むニュースサイト)はほとんど情報源として機能しない。NYでジャーナリズムスクールの学生の様子も見たけど、彼らは「書く」という作法を学校で教わってから、報道機関やフリーでジャーナリストをやる。このフリーというポジションがあるからか、彼らは書く行為に対して真剣だ。彼らの売り物は書かれたものでしかないから。たいていの記事は、速報でない限りは、状況の背景と今後の見通しに関する補助線がきちんと示されている。日本でいえば、新聞記事よりは雑誌記事に近いようなボリュームをもつ。

で、そうした「書く基盤」の上に、ネットが登場したわけだから、かの国のネット上の情報の充実ぶりは想像できるでしょう。日本のことですら、英語の方を読んだ方が状況がよくわかることがあるぐらい。

もっともそのあおりを食らって、アメリカではいま紙の新聞は実売数を減らしていて、経営上、大問題になっている。

だから、インターネットマガジンの休刊というのは、アメリカだったら、新聞や雑誌で普通に起こり始めていることの現れだ、ととってもいいと思う。日本のような再販制度はアメリカにはないから、市場の変化の実売に影響するのも早い。

(それから、日本の場合、大手新聞社は新聞専業印刷会社であることもネットへの対応を遅らせていることを付記しておく。90年代に印刷工場の増設に借金までして手をかけているので、新聞を刷るのをやめられない、ということもある。よく指摘されるように、販売店の問題もある。ある意味、超垂直統合型。けれども、独禁法上の優遇があったり、言論の独立性ってこともあったりして、上場はしていない。だから、必然的に借入体質になってしまう。)

で、インターネットマガジン、休刊はするけど、活動はネットの方で継続するという。そして、その活動は、主に研究開発的な方向に向かうという。たぶん、同じような雑誌カテゴリーに入る日経BPもそうだけど、雑誌というかニュースというか、早聞きが売りだったメディアは、もうネットそのもののユニバースに勝てるはずがないから、そうした情報は所与のものとして、むしろそれら類似情報を並べて評価し、そこからある方向の情報を自ら生み出そう、ということに向かわざるを得ない。ソース情報は、GoogleやYahoo!で検索すればダイレクトにつながるから、勢い、それをどう読むのか、他の情報とどう連関づければよいのか、という方向にいかないわけにはいかない。そうしないと、そもそもアテンションが集まらないから、広告メディアして成立しないし、ユーザーから有料契約を取るなら、情報の解釈という価値が生まれない限り、付加価値は生まれず、長期にわたる契約獲得は困難だろう。だから、ネットの中でパブリッシングを行おうと思ったら、聞いたことをそのまま伝える媒介=メディアから抜け出して、より分析な立場に立って、積極的に第二次創作者になる道が必然的に残ることになる。で、それを対外的にポジティブに公表できるような組織にすると、あたかも研究開発機関のような存在になるわけだ。

雑誌のみならず新聞も含めて、紙媒体でニュース伝達の志向性の高いメディアは、遅かれ早かれ、こうした方向に向かうのだろう。つまり、経営的にも存続可能にするために、有用な情報を作り出す機関へと変貌する方向。メディアがシンクタンクになると言ってもいいけど。

もっともこの場合、いままでジャーナリストとして情報の渉猟をタダ同然で行ってきた、ある種のジャーナリスとしての特権性が、社会的にどう担保されるのか、ということは改めて熟考する必要が出てくるだろう。昔、新聞記者や雑誌記者の取材を受けたけど、無料で時間を取られて取材を受ける一方で、どんな風に書くかは完全に書き手の裁量に委ねられていた。しかも、言ったことの一部だけが都合よく引用されたことも多々あった。それでも、そうした場合、内容の事前チェックはできないのが原則。これが、シンクタンカーという立場で取材に行くと、ヒアリングと称して謝礼は用意しなければならないし、内容についても時にチェックされることすらあった。どうしてこんな違いが生じるのだろう。だから、前述したような、ジャーナリスト特権のようなものが、伝達ではなく、その解釈ならびに創造を売り物にするようになったとき、いったい、どうなるのだろうか。今でも、取材と称して、制作費ないし取材費で調査費用を捻出するようなこともメディア企業の場合にはあるという。そういうのはどうなのだろう。

インターネットマガジンの休刊という出来事は症候的だ。今後のメディア業界の方向を見据える上で、様々な示唆を与えてくれる。