Rockefeller to Push Cable-Content Bill
【February 28, 2006: Multichannel News】
Senator pushes expansion on indecency bill
【February 28, 2006: Hollywood Reporter】
アメリカ議会で、ケーブルと衛星で提供されるチャンネルについても、地上波放送並みに表現規制を設けるための法案が検討されつつある、という記事。
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多チャンネルサービスが当たり前の社会になっているアメリカならではの動きだが、結果として、番組の構成には大きな影響を与えるから、これは想像以上に厳しい動きになりうる。
住んでみた印象では、四大ネットワーク(地上波)とケーブルの番組とでは、やはり突き抜け方が異なった。
様々な規制がない分、ケーブルの番組の方がおおらかな作りをしていたのに対して、四大ネットワークは古典的な番組フォーマットであふれていた。番組フォーマットの革新は、後続のFoxやケーブルから生まれてきた背景があるから、上記の動きの結果、ケーブルがつまらなくならなければよいのだが。
もっとも、表現のイノベーションは、表現規制の少ない、タブーの少ない領域で起こる、というこのルールに従えば、今、アメリカでも勢いの出始めている、i-Podのような、ネット系の映像配信の方でこそ、斬新な表現の試みがなされていくのかもしれない。その方が、実際、おもしろいのかもしれない。
しかし、こういう動きでいつも思うのは、アメリカという国のやり方は、企業が大きくなって、社会的な影響力がでてきたら、具体的な法律でその存在をある程度社会の意にかなうよう拘束する要素をいれていくこと。もちろん、その場合は、そうした対象の外側に、新たな動きの萌芽が観られるようになっている場合があるのだけど。
この「成熟と革新」の間のバランスをうまくとることで、社会が生産するアイデアを枯渇させないところがすごい。
ふりかえって、日本の同じ業界を観ると、かつては新しいフォーマットのトライアルの場であった「深夜枠」という場所は、スポンサー付きの持ち込み企画であふれてきて、新しい試みなんてできなくなりつつある。
アニメに代表されるコンテント・サービス系の商品にしてみれば、コンテントそのものをテレビで見せること、あるいは、サービスを活用する場面を組み込んだ番組をテレビで流すこと、自体が、そもそも宣伝みたいなものだ。つまり、そうした番組自体が既に長尺の広告であるわけだ。そして、一度、テレビで流せば、収益は、DVDだったり、実際のサービスの場だったりで、回収すればいい、ということになる。要するに、ここにあるのは、テレビをテレビと考えるよりも、より直接的に「土管」ととらえる視点。そして、こうした動きはDVRの普及でより容易になっていく。
アイデアの生まれる場所も、素朴に個人から出てくることを考えるだけではだめなのだろう。