Google blacklists BMW.de
【February 6, 2006: CNET News.com】
Googleが自社の倫理基準に基づいて、BMWのサイトをブラックリストに載せたそうだ。
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この動き自体には実はあまり関心はない。むしろ、興味深いと思ったのは以下の諸点。この動きの背後にあるフレームの方が気になった。
・Googleという私企業がルールを自発的に作り、その執行に固執している。
・ネットの世界はグローバルという通り、国境横断的に、適用するルールを制定している。
・その設定には、(少なくとも現時点では)各国政府(この場合だとアメリカとドイツ)も関与していない。
Googleは常々自らをプラットフォーム企業として位置付けたいと公言している(彼等の社是は、“Don't be evil”)。プラットフォームは一種のマーケットで、そこでは任意の団体、人々が関与し、かつ何らかの形での交換活動、売買活動が生じる。そうしたやり取り(これも一種のコミュニケーションか)を支えるために、公正不偏なルールを設定する必要がある。この点に、Googleはとりわけ神経を使っているように思える。
ところで、日本では、アメリカのビジネスエリートはMBAホルダーという認識枠が90年代中頃から広く普及したように思うのだが、これは、実はことの一面しか見ていない。もう一つのビジネスエリートとして、J.D.、つまり弁護士資格を有する法律家がいる。これは、コロンビア大学に留学したときに気付かされたことだけど。
一つには、Legal Strategyが、Business Strategyと同様重要な側面を持つため。裁判のリスクをいかにして小さくするか、あるいは、係争中の裁判をいかに低コストで押さえるか、というのは、大企業になればなるほど、短期には収益に、長期には企業ブランドに重要な影響を与えるファクターとして認識されていることが挙げられる。
二番目に、このLegal Strategyの延長線上でもあるのだが、Governmental Affairs、いわゆるロビイングがある。法律家が、競争の基盤であるRegulationを優位に運ぼうと、政策過程に強く関与する。
三番目に、これは前二者ともかかわるのだが、市民団体という存在が、不買運動や裁判など、実際に企業活動に影響を与えるような実力行使を行ってくることへの対処がある。
こうした背景があればこそ、冒頭のGoogleのような動きが、割と自然に出てくるように思う。なぜなら、グローバル化という流れの中で、上記のような法に関わる案件が、より直接的に、企業を襲うからだ。
日本だとあまり深刻には語られていないけれど、Fair Tradeという動きがグローバル企業にはある。
主に南北問題の文脈で引用されるのだけれど、一次産品の輸出に頼っている開発国に対して、欧米の大企業が“搾取”をしていないか、という疑念に対して、企業自身が自らの内規で対処していくものだ。農作物(コーヒー豆やカカオなど)や鉱物資源の採取、コモディティとなる商品(スニーカーなど)の生産、などにおける不当な労働搾取などが問題にされる。
もちろん、国連や各種国際団体が介在することで、こうした問題への対処方法のひな形が設定されたりするのだけど、その執行には、結局のところ、当事者である企業が自ら動かねばならない、ということで、グローバル企業はその対処に追われることになる。
だから、Googleの動きもこうした文脈で捉えないと行けないと思われる。
90年代後半、情報通信革命とグローバリゼーションの二つが、企業の成長に必要だと喧伝された。そして、前者については、世界中で各地の資本市場の成長と随伴した盛衰を経験した。日本でもアメリカでもITバブルが弾けた。その後には、グローバリゼーションという成長戦略が残った。NYに留学する頃は、まさにそうした頃で、ビジネススクールの売り文句も、起業からグローバルビジネスに移っていた。ただ、NYに行くまではその意味を実はつかみかねていた。
で、わかったこと。
グローバリゼーションへの対応には、何らかの形で「公正」を自ら名のることがビジネスにとっても大事だということ。それは、自国市場と異なり、法的秩序や公正概念が極めて揺らぐため、ビジネスマン自身も、どこかで人々の経済的な生き死にに関わる要素に目を向けざるを得ないこと。つまり、政府とビジネスの役割分担が自国市場ほどには明確ではないため、少なからず、ビジネスも政府に近い役割を自ら果たさなければならないこと。
つまり、情報通信革命の場合は、技術革新という未来への不確定要素をいかにして企業が飼い慣らすか、という点で、ビジネスが技術とどうつきあうか、ということであったことが本質であったのに対し、グローバリゼーションの場合は、ビジネスがいかにして法や政治の実践方法とつきあっていくか、あるいは、内部に取り組むか、ということが本質であったということ。
この点で、単に海外進出ぐらいの意味合いでしか捉えていないのが、日本企業の実体ではないだろうか。そして、極めて日本企業らしくないのが、トヨタやホンダの自動車産業であり、一方、極めて日本企業らしかったの家電産業であったように思う。トヨタやホンダは、中西部の自動車製造地帯の社会にきちんと根付いていた。とりわけ、トヨタの場合は、ミシガンに研究施設も作り、そこで人材育成も行おうとしていた。そうした結果が、現在、GMやフォードを抜いて世界一の企業にならんとしているのだろう。一体全体どうやってそんな振る舞いを身につけたのか、皆目見当がつかないのだが。
とまれ、随分と寄り道をしてしまったが。
Googleが公正的なプラットフォームとして、独断とも思える自社規定の適用を図ろうとするのも、グローバル市場では、法秩序や公正概念も、当事者間で調達しなければならないものだからど思う。「市場をどうやったら立ち上げられるのか」と同時に、「(法)秩序をどうやったら調達できるのか」が重要な課題と言うことだ。
Googleの動きからここまで読み込むのはいささか過ぎた振る舞いなのかもしれないのだけど、単にネットの世界の話で終わらせるには、含意が多すぎると感じたのです。