We're Spending More Time Watching TV
【January 9, 2006: New York Times】
ネットやDVDなどいろいろ多メディア化は進んでいるけど、アメリカ人はあいかわらずテレビを見ている、というニールセンの発表。今年の秋シーズン(9月-12月)の調査だと、昨年よりも視聴時間は4分のびて、4時間39分ということ。
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ニールセンの分析によると、若者層、いわゆるF1、M1は横ばいで、むしろ35歳以上のF2、M2が上昇に貢献したようで、その要因はニュース、ということ。台風カトリーナの惨劇、サダム・フセインの裁判、最高裁裁判長レンクイストの死去(とその後の任命劇)、などが、主たるニュース・“スペクタクル”として挙げられている。
これを、日本の状況とどうつき合わせるかは、とはいえ、いろいろと彼我の違いを考慮しないと誤りそうな話。
4分増加をいろいろ解釈してもあまり生産的ではないから、ここでは、アメリカ人は一日平均4時間半テレビを見ている、ということのチェックだけでいいと思う。ニュースが中高年層の視聴を牽引、というのも、日本人みたいに“1億総中産階級意識”が(“下流社会”話が注目を集めているとはいえいまだ亡霊のように)生きているのと違って、アメリカ人は、地域に所得によるセグメントが幾重にも複層的にあることに注意する必要があると思う。
カトリーナはこれはどこの開発国の映像か?と見まごうほどの災害だったのは確かだが、これを単に「自然が牙をむいた」などと日本の台風報道のようにスペクタクルとして理解してはだめで、むしろ、ブッシュ政権の対応の遅さや、ニュー・オーリンズという観光都市の裏にある、実質的な白人・黒人の生活圏の分離という都市問題があって、そのあたりが「ニュース」として広く受けとめられるのに値したのだろう。フセインの裁判であれば、そもそもアフガンやイラクへの侵攻が本当に必要だったのかという議論をひきずっている。レンクイストの死去にしても彼の死去を悼むだけでなく、次の最高裁判長が誰になるかが決定的に重要だという認識があった。最高裁の見解が、各種原理的問題(中絶や公民権、ゲイマリッジなど)の社会的解釈に大きな影響を与えるアメリカでは、後任人事は大きな争点となる。
ということで、いいたいことは、ニュースが視聴を牽引した、といっても、単に見るものがなかった中高年がスペクタクルとして見ただけでなく(もちろん、スペクタクルとして個々人は消費しているのは確かだが)、それ以上にそうした事件が、実際の生活に与える政治的なインプリケーションに敏感だからだったのだと思う。その分、ニュースに「動員性」があったということだ。
この政治的アクティビティの日常化、という、日本にいると絶対的に見落とす要素を外すと、CNNすらただの“世界からスペクタクルを”ということになってしまう。この感覚のずれは、奥底で、日米のテレビ視聴(というか、テレビ接触)のあり方を大きく左右していると思う。